世良修蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
世良 修蔵(せら しゅうぞう 天保6年(1835年) - 慶応4年閏4月20日(1868年6月10日))は幕末の長州藩士。
周防国大島郡椋野村の庄屋中司家の出で、萩明倫館に学び、後に大畠村で海防僧月性の時習館に学び、さらに江戸では儒者安井息軒の三計塾塾長をつとめた。その後周防阿月領主浦靱負が開設した私塾克己堂の兵学等の講師として仕官した(この当時は大野修蔵と名乗っていた)。下関戦争敗戦後奇兵隊が組織されると、後に3代目総督となる同郷・同門の赤根武人の招聘を受けて文久三年頃入隊、奇兵隊書記となり、さらに慶応元年(1865年)の第二奇兵隊発足に伴い軍監に就任した。慶応2年(1866)赤根が佐幕派に内応したとの疑いを受け脱走すると関与を疑われ謹慎処分となったが、同年4月に発生した第二奇兵隊の倉敷・浅尾騒動事件を受けて隊内の安定のため復職している(この際、浦家より世良姓を賜り、世良修三となっている)。第二次長州征伐では第二奇兵隊を率い、同年6月大島口において松山藩を中心とした幕府軍相手に勝利を収めた。停戦後、萩の海軍局へ転出し、また京都で薩摩藩等との折衝に当たったが、慶応4年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦いに際し前線に復帰、長州庶民軍である第二中隊(旧第二奇兵隊)や第六中隊(旧遊撃隊)を指揮してよく戦い、新政府軍の勝利に貢献している。特に1月6日の戦闘において世良率いる別働隊が八幡山の旧幕府軍陣地を突破したことが新政府軍の勝利を決定付けたと言える。
その後は薩摩・黒田清隆、長州・品川弥二郎に代えて(彼らは就任を固辞した)、薩摩・大山格之助と共に新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀となり、同年3月会津藩征伐の為に総督九条道孝以下570名と共に派遣された。仙台藩・米沢藩らによる会津救済嘆願があったが、にべもなくこれを却下している。さらに世良が江戸表への送付を福島藩士に依頼した書状に「奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する」と書かれていた為、これを入手した仙台藩士は世良の暗殺実行を決意(閏4月14日には仙台藩家老但木土佐らの承認を受けていた)。閏4月19日仙台藩に同調する福島藩士が世良を福島城下第一の青楼、金沢屋へおびき出し歓待、そのまま宿泊した世良は閏4月20日未明、仙台藩士瀬上主膳・姉歯武之進、目明かし浅草屋宇一郎ら二十余名に襲われる。2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は同日阿武隈河原で斬首された。
若くして参謀にまで上り詰めたのであるから力量は確かにあっただろうが、学者肌で軍事の専門家として経歴をつんできた世良には政治的な経験が浅く、仙台藩を初めとした東北諸藩との折衝に失敗し、結果としてそれが彼の命を縮める事となった。ともあれ、世良の死をきっかけとして、新政府軍と奥羽藩連合軍との戦争が始まる事になる。