赤根武人
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赤根武人(あかねたけと、天保9年1月13日(1838年2月7日) − 慶応2年1月25日(1866年3月11日))は幕末の長州藩士。奇兵隊の総管を務めた。別名、文平・幹之丞・貞一・柴屋和平。
周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた。15歳の時に妙円寺の僧侶・月性に学び、後に長州藩士浦家の家老・赤根雅平の養子となった。安政4年(1857年)には梅田雲浜の望南塾に入塾したが、安政の大獄に伴い師・梅田雲浜が逮捕されるに伴い帰郷する。
文久2年(1862年)12月には 高杉晋作・伊藤俊輔・久坂玄瑞・井上聞多らと共に英国公使館焼き討ちに参加し、翌年10月には奇兵隊の第三代総管に就任した。しかし、元治元年(1864年)に第一次長州征伐後に藩政を主導していた俗論派と正義派諸隊の調停を図ったが、それが同志に疑われる事になり、翌慶応元年(1865年)1月に出奔して上方へ赴いた。その後、幕府に捕縛されが、幕府大目付永井尚志や新撰組参謀伊東甲子太郎らの肝いりで11月に放免されて、長州尋問のために下向した永井の随員となった。赤根武人は広島から長州に潜入し生誕の地柱島に潜伏したが、12月に長州藩士槇村半九郎に捕縛されて、翌年1月、山口の鍔石で処刑された。享年29。
[編集] 関連図書
- 狂雲われを過ぐ
- 赤根武人の名誉回復が行われなかったことに関しての裁判に、被告として登場する。