中村梅玉 (2代目)
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二代目中村梅玉(にだいめ なかむら ばいぎょく、天保12年12月28日(1842年2月8日) - 大正10年(1921年)6月8日)は、幕末から明治、大正にかけて活躍した上方の歌舞伎役者。本名笹木徳数。俳名に三雀、鶯声。屋号は高砂屋。
京五条の生まれ。生家は鋲造りの鍛冶職人。1848年(嘉永元年)大阪に移住。同年、女形として藤岡菊太郎と名乗り竹田芝居で初舞台。2年後初代中村玉七門人で中村玉蔵。1865年(慶応元年)五代目三枡大五郎の養子に迎えられ五代目三枡他人を襲名。
技量を興行師三栄に認められ1868年(明治元年)、三代目中村福助(高砂屋)を襲名する。この時点で、東京にも成駒屋に中村福助の名跡があり、同じ芸名の役者が2人出る事態となる。一説には、四代目中村福助(のちの五代目中村歌右衛門)が、高砂屋系統の福助襲名に憤慨し、成駒屋の福助の名跡は一時たりとも絶えさせない掟を造ったと言われている。
福助襲名後は、日蓮の演技で人気を集め、大阪、東京の舞台で活躍するが、初代中村鴈治郎が台頭すると、脇に廻って共演するようになる。1907年(明治40年)10月、大阪角座にて2代目中村梅玉を襲名。以後、『河庄』の孫右衛門、『土屋主税』の宝井基角、『伊賀越道中双六・岡崎』の山田幸兵衛、『菅原伝授手習鑑・道明寺』の覚寿『絵本太功記・尼崎』の操などで鴈治郎を助けた。
口跡・容貌とも優れ、役柄も広く、融通無碍の演技力で、鴈治郎が昨日と違う演技をしても「又変わったんやな。」とさらりと受け流す力量があった。鴈治郎にとってはなくてはならないパートナーであった。1921年(大正10年)、神戸で朝風呂に入浴中、心臓麻痺のため没したときは、鴈治郎は大変なショックをうけ、「もう紙治(『河庄』の別名)もなんも、でけしまへんがな。」との言葉を吐いたほどである。
また、養子三代目中村政次郎(のち三代目梅玉)を鴈治郎の女房役者として、手塩にかけて育てた。