中立進化説
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中立進化説(ちゅうりつしんかせつ)とは、1968年、国立遺伝学研究所の木村資生によって提唱された進化に関する学説である。分子進化の中立説、あるいは単に中立説とも言う。
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[編集] 概要
分子レベルでの遺伝子の突然変異は、そのほとんどが自然選択に対し有利でも不利でもない中立なもので、それが集団中に広まるのは偶然によって決まる。すなわち、ハーバート・スペンサーの言う適者生存(サバイバル・オブ・ザ・フィッテスト)ではなく、幸運な者が生き残る(サバイバル・オブ・ザ・ラッキスト)、と考えるのである。この考えは、ダーウィンの自然選択説に基づく進化の総合説に修正を迫る内容であったので、当初は大きな反発を受けたが、その後、様々な証拠が集まり中立進化説は次第に受け入れられていった。
分子レベルでの遺伝子の進化は、従来のダーウィン進化論の説明のように自然淘汰により引き起こされるだけではなく、生物の生存にとって有利でも不利でもない中立的な突然変異を起こしたものが偶然に広まり集団に固定化することによっても起きるとする。
生存に不利な変異は自然淘汰によって排除されるという点では淘汰説と共通するが、中立進化説では、突然変異の大部分が、生物にとって有利でも不利でもない中立的な変化であるという事実に注目する。「有利な変化」とは、生物の住む環境において、その突然変異が生じた遺伝子をもつ個体の生存率や繁殖率を高める変化のことである。中立的な突然変異が起きても子孫を残せる確率は変わらないが、個体によってはたまたま多くの子孫を残すものもいれば、残せないものもいる。そのなかで、中立的な突然変異を起こした遺伝子は、運がよければ子孫の個体に残るだろうし、悪ければ消えてしまうだろう。この運良く子孫の個体に残った中立的な突然変異が集団のなかに広がって定着していく。つまり、遺伝子に起きた中立的な突然変異が、自然淘汰ではなく、全くの偶然によって広がり、進化が起きると考える。
[編集] 中立進化説の証拠
それまでの現存生物や化石として残っている古生物の形態を調べる従来の進化の研究に、分子生物学の進歩によって遺伝子やタンパク質のアミノ酸配列進化を分子レベルで調べることが可能になった。こうして調べると、予想以上に多くの中立的な突然変異が起きていることが判明した。
[編集] ヘモグロビン偽遺伝子
偽遺伝子とは、正常遺伝子から重複によって生じた後、何らかの理由によって遺伝子としての機能を失った、いわば遺伝子の残骸である。正常遺伝子に起こった突然変異は、自然淘汰により排除される可能性があるが、偽遺伝子には表現型効果がないため、ここに生じた突然変異は自然淘汰にかからない(すなわち中立な突然変異)。マウスのヘモグロビン偽遺伝子の研究から、正常遺伝子に比べて偽遺伝子の進化速度は非常に速いことがわかったが、これは中立進化説の予測どおりである。
[編集] プロインスリン
インスリンの前駆体プロインスリンは3つの部分(A-C-B)から構成されており、タンパク質として合成された後、中央部分のC領域が切り出され、残りのAとBがインスリンを構成することでホルモンとして作用するようになる。A・B領域のアミノ酸置換率に比べてC領域のアミノ酸置換率は6倍になっている。これは、C領域は切り捨てられる部分なので、ここでの突然変異は自然淘汰に対して中立である場合が多いが、A・B領域はホルモン本体を構成するので、この領域における突然変異は致命的になりやすい、と考えれば容易に理解できる。
[編集] アルギニノコハク酸合成酵素偽遺伝子
アルギニノコハク酸合成酵素(AS)遺伝子は9番染色体上に位置しているが、ASの偽遺伝子が多数存在しており、7番染色体とY染色体に存在している2つの偽遺伝子(これをφ-7、およびφ-Yとする)の塩基配列が調べられた。φ-7、φ-Yはいずれも共通の祖先偽遺伝子(これをφ-aとする)に由来している。φ-a→φ-Yの進化の過程における塩基置換率は、φ-a→φ-7の塩基置換率の2.2倍であることが判明した。これは、オスの生殖細胞形成の際の分裂回数がメスに比べてはるかに多く、その結果複製ミスによる塩基の置換が発生しやすいことを反映している。つまり、7番染色体は平均して2世代につき1世代をオスの中で過ごすが、Y染色体は必ずオスの体にしか存在しないため、Y染色体の複製ミス発生率は7番染色体の2倍になるのであると考えればよい。このように複製ミスの発生率と塩基の置換率が単純に比例していることは、塩基の置換による突然変異が、自然淘汰に対して中立であることを示している。
[編集] 中立進化説からの発展
中立説を理論的根拠とする分子時計によって種分化の起きた時期や、生物種間の系統関係などが調べられる。
さらに進んで、相同な2つの遺伝子の塩基配列を比較したとき、配列に変化の少ない部分があると、この部分は遺伝子が機能する上で重要な部分である(つまり、生存に不利な突然変異は自然選択により排除される)と考え、変化の大きい部分は重要でない部分である(つまり、中立な突然変異が多数蓄積している)と考えることができる。
[編集] 関連
[編集] 参考文献
- 『分子進化の中立説』木村資生
- 『生物進化を考える』木村資生
- 中原英臣 『図解雑学 進化論』 ISBN 4816327010