久下氏
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久下氏(くげうじ)は、丹波国の国人領主。本姓は清和源氏。武蔵国大里郡久下郷(現在の埼玉県熊谷市久下周辺)を本貫地とする。源平の争乱で戦功をあげ、承久の乱の後に丹波国栗作荘(兵庫県丹波市山南町)へ移った。
南北朝時代、足利方として数々の戦功をあげた。また観応の擾乱の際、一時丹波にしりぞいた足利尊氏・義詮親子をよく守護し、丹波を中心に武蔵国・飛騨国等に十数か所におよぶ所領を与えられ、丹波国の有力な国人領主となり、室町幕府の奉行衆もつとめた。
しかしながら、明応の政変で将軍足利義材についたことをきっかけに没落し、所領のほとんどを失ない、明智光秀の丹波侵攻によって領主の地位を追われた。
菩提寺として、埼玉県熊谷市に東竹院、兵庫県丹波市山南町に長慶院がある。
現在でも、兵庫県丹波市と篠山市に久下氏の一族が居住している。
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[編集] 居城
兵庫県丹波市山南町玉巻の八幡山にあった。久下城、玉巻城と称される。現在でも遺構がのこっている。
遺構写真:http://www.ne.jp/asahi/siro/tansaku/sirodata/hyougosiro/kuge01.htm
[編集] 逸話・伝説
[編集] 家紋の由来
久下氏の家紋は「一番」という文字であるが、その由来が『太平記』に記されている。
足利尊氏が丹波篠村八幡宮で挙兵したとき、真っ先に久下時重が250騎を率いてはせ参じた。その旗印に「一番」とあるのを不審におもった尊氏がその由来を尋ねた。高師直が、「源頼朝が土肥の杉山で挙兵したさい、久下重光が一番にはせ参じた。頼朝は、もし天下を取ったならば一番に恩賞を与えよう、と「一番」という文字を書いて与え、やがてそれを家の紋としたのである」とこたえた。尊氏は、それは吉例であると喜んだと言うことである。
[編集] 熊谷直実との所領争い
建久3年(1192)11月25日、熊谷直実と久下直光が所領の相論のため、頼朝の前で議論をおこなった。 直実はうまく答弁できず、頼朝はすこぶる不審に思ったのだが、判決がでない内に、直実は書類等を 頼朝になげつけ、憤怒のあまり髻をきり遁世に及び、居宅にも戻らず西に向けて逐電したという。(『吾妻鏡』)