熊谷直実
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熊谷 直実(くまがい なおざね、永治元年2月15日(1141年3月24日) - 承元2年10月25日(1208年12月4日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。熊谷直貞の次男。通称は次郎(じろう)で、熊谷次郎直実の名でも知られる。文治元年(1185年)に、かの源平の戦いで有名な熊谷蓮生(れんせい) 法師(熊谷次郎直実)が戦いの明け暮れから、積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ね、「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」との、あまりにも有り難いみ教えに歓喜し、直ちにお弟子となり剃髪し、法力房蓮生と名付けられ、数年のご修行の後、喧噪の吉水を離れ、静かに念仏を称えられる地を求めて、建久九年(1198年)に、上人ゆかりの地、粟生広谷に寺を建て、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営み、開山第一世と仰ぎ、自らは二世となり、上人からは「念仏三昧院」の寺号を頂いた。
[編集] 経歴
武蔵大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市(くまがや))の出身。幼い時に父を失い、久下直光に養われた。源頼朝の挙兵の時、初め平氏側についたが、のち源氏側についた。『平家物語』に述べられる一ノ谷の戦いでの平敦盛との一騎打ちは有名である。
建久3年(1192年)久下氏との所領争いに敗れた事から、突然出家した。法名は蓮生(れんしょう、別説は”れんせい”)である。平家物語においては、若い敦盛を討った際に、殺生の虚しさに気付き、敦盛の供養のために出家したとされているが、事実は叔父との領地を巡る訴訟に敗れた為とも言われている。
家督を嫡子熊谷直家に譲った後、法然の弟子となり出家した。出家後の直実は東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立。また、建久4年(1193年)に美作国久米南条稲岡庄(岡山県久米郡久米南町)の法然生誕地に誕生寺を建立した。本領の熊谷郷に帰った後は庵を建て、そこで念仏三昧の生活を送り、承元元年(1207年)自分の死を予告し、その予告通りに往生したと伝えられてる。
京都と東京の和文具・香道具屋「鳩居堂」の店主は熊谷直実の子孫と称している。