五刑
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五刑(ごけい)とは、古代中国の刑罰体系。日本にも律令法とともに伝わって五罪(ござい)とも呼ばれた。
中国においては、先秦時代の書物とされる『書経』・『周礼』に記されており、墨(黥・いれずみ)・劓(はなそぎ)・剕(あしきり)・宮(去勢)の4つの肉刑と大辟(死刑)の1つの生命刑から成り立っていた(ただし当時の概念では墨や宮は肉刑には含まれていなかった)。
前漢文帝の時代、名医として知られていた淳于意(倉公)が罪に問われて肉刑に処せられそうになった際にこれを儚んだ娘が「肉刑に処せられれば、更生したくても更生する事も出来ない」と訴えて父の処罰の代わりに自分を奴隷にして欲しいと嘆願した。これに心動かされた文帝は肉刑(劓・剕)を禁止した。だが、その代替として刑罰に取り入れられた鞭打ち回数が増大されたり、死刑に該当する刑罰が増加したりして却って罪人への扱いが厳しくなったとの批判もされた。このため、魏の時代に肉刑復活を求める陳羣とこれに反対する王朗の間で激しい論争が行われた。
西晋時代に律令が導入されて以後、非漢民族の影響の強かった北朝において自由刑である徒刑や流刑などの整備が行われた。やがて、隋に至って笞刑・杖刑・徒刑・流刑・死刑の新しい五刑が成立するようになり、これが唐以後の歴代王朝にも引き継がれる事となった。
日本でも天武天皇の時代以後、唐の影響を受けて五刑が導入された。ただし、当時の日本では犯罪と刑罰は表裏一体であると考えられていたために、当時の慣習に従って刑罰を「罪」と呼称し、大宝律令・養老律令では笞罪・杖罪・徒罪・流罪・死罪と名称を改められ、「五罪」と呼称されていた。しかし、法体系が深化した平安時代の頃から犯罪と刑罰の区別が進んで中国のように「五刑」と呼ぶことが一般化された。