人取橋の戦い
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人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい)は、 天正13年11月17日(1585年1月6日)に蘆名氏・佐竹氏の連合軍を伊達政宗が押しとどめた戦い。
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[編集] 開戦の経緯
奥州探題を自任し、その職の実効範囲を拡大しようとする伊達政宗と争って苦境に立たされた二本松城主・畠山義継は、天正13年10月8日(1585年11月29日)、政宗の父・輝宗を拉致しようと図るが、伊達軍によって輝宗・義継ともに非業の死を遂げた。
怒りに狂った政宗は父の初七日を待って、父の仇と二本松攻めを断行する。伊達政宗は1万3千の兵を率いて二本松城を攻囲するが、畠山氏は義継の遺児・国王丸を擁して立て籠もった。 城も落ちないまま1ヶ月が過ぎた頃、畠山氏救援のため、南奥に勢力圏を確保していた佐竹義重が畠山氏救出の名目で蘆名・石川・二階堂・白河結城・相馬・岩城などの諸氏を糾合して3万の連合軍を結成し須賀川へ進軍してきた。
[編集] 戦の経過
常陸の佐竹氏を筆頭に芦名・岩城・石川・白川・二階堂ら東北諸氏が この報を知った政宗は1万3千の軍を二手に分け、8千の軍勢とともに連合軍迎撃のため岩角城を経て本宮城に入った。 11月17日政宗は本陣を本宮城外の観音堂丘に進める。8千対3万。兵の差は3倍以上であり、政宗は最大の危機に陥った。
[編集] 人取橋の戦い
1585(天正13)年11月17日、ついに伊達軍と連合軍は人取橋付近で激突する。戦いは終始伊達軍の劣勢で進んだ。 人取橋を挟んで防戦に終始する伊達軍。本陣まで敵が迫り、政宗自身も鎧に矢を一筋、鉄砲5発を受けている。 伊達軍は敗走を重ね鬼庭左月をはじめ多くの犠牲者を出した。 瀬戸川館に陣を布いていた伊達成実は挟撃を受け、それでも退かずに討ち死に覚悟で奮戦した。 伊達軍は壊滅寸前にまで追い込まれたが、幸運にも壊滅前に日没を迎え連合軍は一旦引き上げた。なんとか、一日は凌ぎきったのである。
[編集] 連合軍の撤退
明けて18日、伊達軍にとっては奇跡とも思える出来事が起きる。一夜にして3万の連合軍が撤退していたのである。 政宗は幸運にもこの最大のピンチを乗り切ることに成功したのである。政宗は岩角城へ引き上げ、連合軍の様子を伺いつつ、小浜城へ移った。
[編集] 連合軍撤退の謎
連合軍の主力は佐竹氏である。その佐竹氏に異変が起きた。佐竹氏の将総帥・佐竹義政(義重の叔父)が家臣に刺殺されるという事態が発生し、さらには留守の本国常陸に隣国の里見氏らが攻め入る動きを見せたのである。 この報を知った当主・佐竹義重は一夜にして撤退を決めた。 盟主と仰ぐ佐竹氏が撤退すると、他の諸氏も各々撤退に入った。こうして3万の軍勢は一夜にして伊達軍の前から消えた。 佐竹氏の本国急変は、実は政宗による裏工作があったのではないかという説や伊達本国を攻めた場合の伊達家出身の諸将(岩城親隆・石川昭光)の離反を危惧したとのある。
[編集] 結果
戦国武将・政宗の最初にして最大のピンチであったが、とにかく乗り切ったことで政宗は勇名を轟かせることになる。 死傷者の数は伊達軍が426人、連合軍側が961人と伝えられ、劣勢だったわりには、伊達軍は甚大な被害を受けずにすんだ。 この年は閏月があったので旧暦11月は真冬にあたる。政宗はとりあえず二本松攻めも中断し、小浜城で年を越した。二本松城攻めは翌年に持ち越しとなった。
この戦以降、佐竹氏は後北条氏の下野進出などの関東情勢の変化のために伊達氏に対する積極的軍事行動をとれなくなる。伊達氏は従前のように南下路線を継続し、南奥の検断実行にひとまずは成功する。
合戦が行われた福島県本宮市には古戦場跡碑と戦死した伊達氏家臣・鬼庭良直の墓が残る。
[編集] 関連
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