伊地知幸介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊地知幸介(いぢちこうすけ、安政元年11月6日(1854年12月25日) - 大正6年(1917年)1月23日)は、鹿児島県出身の軍人。陸軍士官学校旧2期(士官生徒2期)卒業、砲兵科出身。日露戦争時の第3軍参謀長。
御親兵(後の近衛兵)に抜擢され上京、薩摩閥の1人であり、妻が大山巌元帥の姪という強力な後ろ盾もあり、1880年(明治13年)フランスに4年後にはドイツへ留学し、その後日清戦争時には大本営参謀・参謀本部第1部長・駐英武官と陸軍内でのエリートコースを順調に進む。
[編集] 日露戦争
日露戦争時には旅順要塞攻撃の為に新たに編成された第3軍(総司令官・乃木希典大将)の参謀長に抜擢される。砲兵科出身という理由の上に、長州出身の乃木大将との藩閥調整の為、薩摩出身者である伊地知が任命されたとの理由が大きい。旅順要塞攻撃時、火砲を重視し、旅順攻略を果たした。旅順攻略後は健康上の問題で第3軍参謀長を更迭され、旅順要塞司令官という名ばかりの閑職に廻される。
日露戦争終息後はエリートコースから外れ中将で退役、陸士同期生が次々と大将に昇進する中、伊地知が中将止まりであったのは多分に旅順要塞攻撃の責任を取らされたのではないかとする意見もある。
なお、1908年(明治41年)には、かつて第3軍参謀長として壊滅状態に導いた第11師団長に任命され、2年弱在任している。
[編集] 評価
司馬遼太郎著『坂の上の雲』や東映映画『二百三高地』等の印象により、伊地知を作戦・指揮能力の欠けた無能者であるとする辛辣な評価が多い。旅順要塞攻撃に対し、融通の利かない硬直した作戦指揮により味方の損害を拡大させた責任も大きいが、当時の日本陸軍自体が近代要塞に対する知識が皆無であり、旅順要塞に関する情報不足であった事、味方の火砲攻撃力が著しく小さかった事を考慮するに、伊地知が無能者であると一概に断定するのは酷である。
第3軍司令官であった乃木希典が、日露戦争終結後に名将として奉られる傾向が顕著に表れ、軍部としてもその風潮を無視出来ず、旅順要塞攻撃時で見られた乃木の失策の原因を参謀長であった伊地知に責任を負わせる事で誤魔化そうとした傾向もあり、日露戦争以後の伊地知に対する否定的な評価は正当な物であるか疑問が残る。陸軍の中でエリートコースを進んでいたとは云え、専ら事務方としての勤務経験しか無く、実戦経験の低い伊地知を参謀長に任命した当時の陸軍人事自体に問題が在るとも云え、伊地知自身藩閥調整と云うお手盛り人事の被害者であるとも言える。
伊地知が士官学校卒業当時にはまだ陸軍大学校は開校しておらず、成績優等者は海外留学の栄誉が与えられた。伊地知は士官学校在学中から留学組と見られており、学校の成績そのものは優秀であったと思われる。