伊地知正治
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伊地知 正治(いぢち まさはる、文政11年6月10日(1828年7月21日) - 明治19年(1886年)5月23日)は、日本の武士・薩摩藩藩士。修史館総裁、一等侍講、宮中顧問官等を歴任し、伯爵を授爵する。諱は初め季靖。通称竜右衛門。号は一柳。後年はショウジと名乗った。
薩摩藩士伊地知季平の二男として、薩摩国鹿児島城下千石馬場町に生まれる(幼名竜駒)。3歳の時に文字を読み「千石の神童」と呼ばれるが、幼い頃に大病を患ったため片目と片足が不自由となる。 剣術を薬丸自顕流の薬丸兼義に、合伝流兵学を法亢宇左衛門に学ぶ。特に合伝流は奥義を極めた。西郷従道、高崎五六、淵辺群平、三島通庸は合伝流の弟子である。池上四郎、有馬藤太も伊地知の薫陶を受けている。 また、藩校・造士館の教授となる。
1859年には精忠組に参加した。1862年、島津久光の上洛に従って京都に上った功績により、軍奉行となる。伊地知は類稀な軍略家であり、薩英戦争や戊辰戦争で大きな功績を挙げた。白河口の戦いではわずか700の兵で白河城に拠る旧幕府軍2500を大破。会津戦争においても薩摩軍を指揮し、土佐藩の板垣退助と共に会津若松城落城に大きく貢献している。伊地知の兵法の特徴は徹底した少数精鋭主義(薩摩藩兵では城下士の部隊、長州藩兵では奇兵隊系の部隊を選抜して率いた。)と合伝流の伝統である火力絶対主義にあった。 戦後は薩摩藩の藩政改革に臨んだ。
明治政府ではその功績に関わらず、板垣と同じく軍職に就かなかった。 征韓論論争では征韓側につき、板垣とともに派兵計画を立てた。しかし、明治六年政変では下野しなかった。 その後、参議と左院議長を兼任し、後に修士館総裁になった。西南戦争後は鹿児島に帰って戦火で荒れた郷里の復興に尽力し、1886年、58歳で死去。
軍略家として長州藩の大村益次郎に劣らぬほど大きく秀でており、目と足の障害にちなみ武田信玄の軍師であった山本勘助の生まれ変わりと言われた。