征韓論
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征韓論(せいかんろん)は、日本の幕末から明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛(西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことであり、むしろ遣韓論)、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力で朝鮮を開国しようとする主張である。
江戸時代後期に国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと古事記・日本書紀に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。
明治維新後に対馬を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが拒否され、国内において征韓論が沸騰した。1873年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、同年9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは時期尚早としてこれに反対、同年10月に遣韓中止が決定された。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)し、1874年の佐賀の乱から1877年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となった。