伊東祐堯
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伊東祐堯(いとう すけたか、応永16年(1409年) - 文明17年4月28日(1485年6月10日))は日向伊東氏五代当主。伊東祐立の嫡男とされるが、一説には祐立に祐家という正嫡が別にいて、その子が祐堯とも言われる。幼名は六郎。正室は土持氏。
文安元年(1444年)、祐立の死去により36歳で家督を継ぐ。反抗的な一族の討伐に乗り出し、まず曽井氏を宮崎城に攻め滅ぼした。翌文安2年(1445年)以降も土持氏の同意を得て門川、穆佐、清武など各地の城主を次々と破り、傘下に収めていく。
日向国内に武威を示すと次に京都に働きかけて守護職を求めたが、土持氏の反発によって実現しなかった。そこで康正2年(1456年)に開戦に踏み切り、財部土持金綱を滅ぼして平野部から土持氏の勢力を駆逐する。こうして北は門川、南は紫波洲崎までを支配するようになり、国内外に伊東氏の存在感を強めた。
寛正2年(1461年)には再び京都に使者を送り、将軍足利義政から「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く」という内容の御教書を得ている(ただし、これは伊東氏によって創作された偽文書である可能性が高いとされる)。
島津氏とは友好的な関係にあり、寛正5年(1464年)には島津立久と鵜戸山で会見し和議を調えている。ところが文明12年(1480年)に島津氏が紫波洲崎城を攻めたことで、両家は再び敵対することになった。
文明17年(1485年)、出陣中に清武城で死去。享年77。
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