信頼できない語り手
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信頼できない語り手(しんらいできないかたりて、Unreliable narrator)とは、小説や映画などで物語を進める手法の一つで、語り手(ナレーター)の信頼性を著しく低いものにすることにより、読者や観客をさ迷わせたりミスリードしたりするものである。この用語はアメリカの文芸評論家ウェイン・ブース(Wayne C. Booth)の1961年の著書、『フィクションの修辞学』(The Rhetoric of Fiction) の中ではじめて紹介され、語り手に関する議論において「一人称の語り手は信頼できない語り手である」との論が張られた。
信頼できない語り手の人称は普通一人称であるが、三人称の語り手も信頼できない語り手となることがある。読者が語り手を信頼できなくなる理由は、語り手の心の不安定さや精神疾患、強い偏見、自己欺瞞、記憶のあいまいさ、知識の欠如、出来事の全てを知り得ない限られた視点、その他語り手が観客や読者を騙そうとするたくらみなどによる。もしくは、物語の中にさらに物語(劇中劇、妄想、夢など)があり、語り手はその中の登場人物となっており、語りのところどころにそれが虚構である証拠をはさんでいることもある。
語り手の信頼度には、『白鯨』の信頼の置けそうなイシュメールから、ウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』における複数の語り手たち、ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』における犯罪者ハンバート・ハンバート教授まで大きな幅があるが、全ての語り手は一人称であれ三人称であれ知識や知覚の限界があることから信頼できないともいえる。
語り手の陥っている状態は、物語の開始と同時にすぐ明らかになることもある。例えば、語り手の話す内容が最初から誤っていたり、錯覚したものを事実だと主張していたり、精神的な病をわずらっていると最初から認めている場合などである。しかし普通、この手法は物語をよりドラマチックにするために最後近くになってから明かされることが多い。読者や観客は、どんでん返しの結果、それまでの視点を見直しもう一度物語を最初から体験しなおそうとする。また、語り手の信頼できなさが最後まで完全に明らかにされず、読者や観客は語り手がどこまで真実を語っていたのか、物語はどう解釈されるべきなのか謎のまま放り出されることもある。
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
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[編集] 信頼できない語り手の例
信頼できない語り手の最古の例は、14世紀イギリスのジェフリー・チョーサーによる『カンタベリー物語』に見られる。この中の「貿易商人の話」では、騎士とその妻と間男の物語を語る商人自身が結婚生活に満足していないため、女嫌いの偏見が物語全体にかかっている。
20世紀初頭のアメリカの怪奇小説家、H・P・ラヴクラフトによる一連の「クトゥルフ神話」小説では、恐怖に晒されて正気を失った一人称の語り手を起用することが多く、これらの語り手を信頼できなくすることで謎を謎のまま残している。また語り手が自分の見た出来事を超自然的に解釈することを硬く拒み通すものの、最後にやっと恐ろしいものに直面したことを認めざるを得なくなる、という手法をしばしば使っている(『ピックマンのモデル』など)。
イギリスの小説家カズオ・イシグロは『日の名残り』などで、自分の人生や価値観を危うくするような過去の記憶から逃げている等、記憶を操作していたり記憶があいまいだったりする一人称の語り手を登場させ、最後には語り手が記憶と事実のずれに直面せざるを得なくなるような物語を多く書いている。
[編集] 子供の語り手
子供が語り手となる物語では、経験不足や判断力不足のために主人公の少年少女は「信頼できない語り手」になることがある。1884年の『ハックルベリー・フィンの冒険』では、主人公ハックは未熟なためもあり、登場する人物達に対する判断は実際以上に寛大なものになっている。(この物語ではハックが作者の「マーク・トウェインさん」をとがめる場面もあり、作中人物と現実の作者が交錯し「第四の壁」を破る初期の例でもある。)逆に、『ライ麦畑でつかまえて』の思春期の少年ホールデン・コールフィールドは、周りの人物達を酷評しがちである。
[編集] 読者を騙す語り手
読者や他の登場人物を騙そうとする人物も、信頼できない語り手である。有名なところではアガサ・クリスティが1926年に書いた推理小説『アクロイド殺し』は、探偵と行動を共にする語り手の書いた手記という形式になっているが、実は語り手が犯人だったという設定になっている。語り手は嘘は書かなかったものの、自らが犯した殺人の決定的な描写をわざとあいまいに書いている。こうした叙述トリックは、発表当時アンフェアだと批判された。より近年の例では映画『ユージュアル・サスペクツ』で、警察に尋問される語り手が「信頼できない語り手」となっている。語り手は事件に関する詳細を語るが、犯罪王カイザー・ソゼについて知ることの全てを語っておらず、彼の語った内容も虚実があいまいである。
[編集] 精神に問題のある語り手
知的障害や精神疾患のある語り手も、自分の知覚したふうに人物や世界を表現するため、物語が事実とは異なって進む場合がある。ウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』における複数の語り手の中には、知的障害を抱える人物が登場する。『メメント』では語り手は前向性健忘となり10分以上の記憶が保てなくなっており、過去の出来事や自分の動機が何だったか信頼できる方法で語ることが困難な状態である。夢野久作の「ドグラ・マグラ」は、本人の自覚しない理由で精神病院に入院している主人公が、自分が犯したかもしれない犯罪を解決しようと努力する話であるが、その物語自体が発作による記憶であるかもしれないことが示唆されている。
[編集] 複数の信頼できない語り手
複数いる語り手たちが私利私欲、個人的な偏見、恣意的な記憶のために全員信頼できないという作品もある。映画『羅生門』や、その原作である芥川龍之介の『藪の中』では、ある武士の死について複数の人物が検非違使に証言をするが、同じ出来事を基にしながら各人の語る証言は詳細が大きく異なり、武士の死因についても偶然、殺人、自殺と矛盾することを言う。『羅生門』は様々な映画に影響を与え、同様の展開が起こる映画は多く製作されている。また『ヒー・セッド シー・セッド 彼の言い分 彼女の言い分』や『グリース』などのロマンス映画では、男性側と女性側とで自分たちの関係についての言い分が完全に食い違う。
[編集] 三人称の信頼できない語り手
一人称の登場人物ではなく、ある登場人物に焦点を当てる一元視点の三人称の語り手も、視点の限界から信頼できない語り手となりうる。また、物語を見回す全知の三人称の語り手も、重要な出来事を省略することによって読者や観客を騙す場合もある。アンブローズ・ビアスの短編小説、『オウル・クリーク橋の出来事』はその古い例で、語り手が述べるある男の物語は途中からすべて空想だったことが明らかになる。その他、信頼できない三人称の語り手による作品には『シックス・センス』などがある。