アンブローズ・ビアス
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アンブローズ・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce, 1842年6月24日 - 1914年?)は、アメリカ合衆国オハイオ州生まれの作家、ジャーナリスト、コラムニスト。
南北戦争では北軍に志願兵として従軍。戦後、サンフランシスコで夜警をしながら文筆業を開始。
1868年から『ニューズレター』紙に掲載された激辛の評論が大人気となり、その毒と風刺の効いた筆致から「文筆界の解剖学者」、「ニガヨモギと酸をインク代わりにしている」、「ビター(辛辣な)・ビアス」などと呼ばれた。
1909年から1912年にかけて、『アンブローズ・ビアス全集』(全12巻)を自ら編集した。
1913年、メキシコ革命による混乱でほぼ内戦状態のメキシコに赴き、消息不明となる。
日本には芥川龍之介が初めて紹介。芥川は「短編小説を組み立てさせれば、彼程鋭い技巧家は少い。評家がポオの再来と云ふのは、確にこの点でも当たつてゐる」と評価している。また芥川の作品のうち『藪の中』『侏儒の言葉』などにビアスの影響が指摘されている。
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[編集] 生い立ちと軍歴
オハイオ州南東に位置するメグズ郡ホース・ケイヴ・クリークという僻村に生まれる。思春期をインディアナ州エルクハートの町で過ごした。南北戦争が勃発すると、ビアスはインディアナ義勇軍第9連隊に入隊、北軍に参加した。1862年2月、ウィリアム・バブコック・ヘイズン少将の幕僚として中尉に任官、測量技官として戦場想定地の地図の作成に当たった。この戦争における重要な戦いではしばしば勇敢に戦い、中でもウェストバージニア州ジラード・ヒルでの戦闘において重傷を負った戦友を砲火の下から救出し、新聞にも紹介されている。1864年6月、ケネソー・マウンテンの戦いにおいて頭に重傷を負い、夏の終わりまで療養生活を送ったが、9月には軍務に復帰、やがて1865年1月に除隊となった。
しかし1866年夏に復員、西部の平野を横断する前哨地視察を目的とするヘイズン少将の調査旅行に参加。馬や馬車を使ったこの旅はオマハからネブラスカを経由し、年末にはサンフランシスコに到着した。
[編集] ジャーナリズム
サンフランシスコで軍から除隊、名誉少佐の辞令を受ける。この地に何年もとどまって『サンフランシスコ・ニューズレター』『アルゴノート』『ワスプ』などの地方紙の寄稿者・編集者として活動し、名の知れた存在になっていく。1872年から1875年にかけてはイギリスで活動した。その後アメリカに戻ると、ふたたびサンフランシスコに居を構える。1879年から1880年にかけて、ニューヨークの鉱業会社の現地支配人として当時ダコタ準州であったサウスダコタ州のロックビルやデッドウッドに赴いたが、会社の経営が行き詰るとサンフランシスコにもどってジャーナリスト活動に復帰した。1887年、ウィリアム・ランドルフ・ハーストが経営に着手した新聞『サンフランシスコ・エグザミナー』の初期の連載コラムニストの一人となり、やがて、西海岸でもっとも強い影響力をもつライターに数えられるようになった。1899年12月にはワシントンD.C.に転居したが、ハースト系の新聞への寄稿は1906年まで続けられた。
[編集] マッキンリー訴訟
ビアスは世間に対する容赦のない毒舌や風刺を強く好んだため、執筆者としてのその長いキャリアにおいて、論争を生じさせることがしばしばあった。実際の事件を扱ったコラムの中には非難の嵐を巻き起こしてハーストの立場を危うくしたものもある。そのうち、もっとも有名なものの一つを挙げると、大統領ウィリアム・マッキンリー暗殺事件の発生後、1900年にビアスが書いた風刺詩がハーストの政敵たちによって問題とされ、世間の注目を集めた事件がある。ビアスがこの風刺詩で意図したのは、ケンタッキー州知事への就任を控えていたウィリアム・ゴーベルが暗殺された事件について国民が戦慄していることを表現することだったのだが、マッキンリーが1901年に暗殺されると、次に挙げる部分がまるでこの事件を予言するしたもののように読むこともできる。
The bullet that pierced Goebel's breast
Can not be found in all the West;
Good reason, it is speeding here
To stretch McKinley on his bier.
ゴーベルの胸を貫いた凶弾は
西部のどこにも見つからない
そうだろうとも、それは今この地を走る
マッキンリーが棺台で寝そべられるように
対立関係にあった新聞社――それに当時の国務長官イライユ・ルート――によって、ハーストは、マッキンレーの暗殺を未然に知っていたものとして(おそらくわざと)告発された。沸騰する世論の中で、ハーストの大統領職への野心もかなわぬものとなり(そのうえ、ボヘミアン・クラブの会員資格をも失った)が、問題の風刺詩の作者がビアスであることを明かすこともなければ、ビアスを解雇することもしなかった。
[編集] 著作活動
その短編小説は19世紀最高の部類に入ると考えられている。みずからの戦争体験において見聞きした凄惨な出来事を『アウル・クリーク橋の一事件』『レサカにて戦死』『チカモーガ』などでリアルに描き出した。
ビアスは同時代人から「純粋な」英語の達人と見られていたため、かれのペンから生まれたもののほとんどすべてが、語法や文体の上で注目に値するものと捉えられた。さまざまなジャンルの作品をたくみに書いており、すぐれた幽霊小説・戦争小説に加え、詩集も出版している。また『悪魔の寓話』は20世紀に一つのジャンルとなったグロテスク・アイロニーの先駆けを成した。
もっとも有名な作品として、非常によく引用される『悪魔の辞典』がある。そもそもは新聞紙上で連載されたものが、まず1906年に『冷笑派用語集』として出版された。隠語や玉虫色の表現に痛烈な風刺を加え、言葉に興味深い再解釈を施している。
1909年に出版された全12巻の全集においては、『冷笑派用語集』をビアスみずから『悪魔の辞典』に改題、第7巻のすべてを使用して収録している。
[編集] 失踪
1913年10月、すでに70代になっていたビアスは、ワシントンD.C.を去り、かれが関わった南北戦争の旧戦場をめぐる旅に出た。12月までの間にルイジアナ、テキサスを通過。エル・パソを通って、当時メキシコ革命のために混乱状態にあったメキシコに入国した。シウダー・ファレスでパンチョ・ヴィヤ軍にオブザーバーとして加入し、ティエラ・ビアンカの戦いに参加している。チワワ州チワワ市に到着するまではヴィヤ軍と行動をともにしていたことは判明している。この都市から1913年12月26日に親しい友人へ手紙を送ったのを最後に完全に消息を絶っており、アメリカ文学史上もっとも有名な失踪事件のひとつとなった。ビアスのその後の運命を調査する試みはまったく成果をあげられず、何十年も経過した今となっても、その真相は謎とされたままである。
怪物が棲むという伝説がある洞窟に入ったきり出て来ずそのまま行方不明になったという話もある。[要出典]
[編集] 関連事項
ロバート・W・チェンバースは、短編集『黄衣の王』の中で、ビアス作品からいくつかの用語や架空の地名を借用している(たとえば、ハスターやカルコサなど)。のちに、ホラー小説家のH・P・ラヴクラフトがこれらを自分の小説に取り込んだため、さらにのちの作家たちによって体系化されたラブクラフトの世界『クトゥルフ神話』にも登場している。
メキシコの小説家カルロス・フエンテスはビアスの失踪後を扱ったフィクション小説『老いぼれグリンゴ』を著した。ビアスの性格をうまく使い、当時のメキシコ社会の混乱と米国との関係を説得力をもって展開したこの小説は、1989年にルイス・プエンソ監督、グレゴリー・ペック主演で映画化された(邦題「私が愛したグリンゴ」)。
アメリカのSF小説家ロバート・A・ハインラインの小説『失われた遺産』に登場人物の一人としてビアスが登場する。この小説でのビアスは、脳の本来使われていない部分の使い方を会得することで超能力を得た人々の仲間である。
映画『フロム・ダスク・ティル・ドーン3』にも、失踪したはずのビアスが登場している。
日本での研究者、翻訳者としては奥田俊介が著名である。
[編集] 作品リスト
[編集] 短編集
- 『生のさなかにも』 In the Midst of Life
- 『豹の眼』 Tales of Soldiers and Civilians
- 『死の診断』 A Diagnosis of Death
- 『修道士と絞刑人の娘』 The Monk and the Hangman's Daughter
- 『悪魔の寓話』 Fantastic Fables/Epigrams
- 『完訳・ビアス怪異譚』
- 「羊飼いのハイータ」 Haita the Shepherd
- 「カルコサの住民」 An Inhabitant of Carcosa
- 『ビアス怪談集』
- 『対訳ビアス』
- 『ビアス選集』
- 1 戦争
- 2 人生
- 3 幽霊 1
- 4 幽霊 2
- 5 殺人
- 『つかのまの悪夢』
- 『よみがえる悪夢』
[編集] その他
- 『悪魔の辞典』 The Devil's Dictionary
[編集] 外部リンク
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