内藤如安
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内藤 如安(ないとう じょあん、天文19年頃(1550年)? - 寛永3年(1626年))は戦国時代・安土桃山期のキリシタン武将。如安はキリスト教への受洗名 "ジョアン"の音訳名で、諱は忠俊(貞勝とも)。小西飛弾守とも称す。熱心なキリシタンとして知られており、また茶人としても名高い。丹波の在地領主として出発、転じて小西行長に仕えた後浪人し、最後はキリシタン追放令によりマニラへ追放された。
父は三好長慶の重臣である松永久秀の弟長頼。16世紀半ば、三好氏は畿内で強盛を誇り、丹波攻略にも従事しているが、この戦で長頼は頭角を現して、八木城を本拠として口丹波の統治を任された。さらに長頼は人心獲得のために地元の名族・内藤氏の名跡を引き継ぎ、内藤宗勝を名乗った。
ところが丹波では在地勢力である赤井氏が勢力を広げ、一時は三好氏に従っていた波多野氏も独立の姿勢を見せる。こうしたなか1565年(永禄8)、赤井直正と交戦中に長頼は討死、若年ながら如安が家督を引き継いだ。このころに如安はルイス・フロイス(またはガスパル・ヴィレラ)によってキリスト教に受洗している。
家督を引き継いだものの、畿内では主筋の三好氏は急速に衰退しており、逆に丹波では赤井氏・波多野氏の攻勢にあって天田郡などの内藤氏の領土は蚕食されていった。さらに畿内では将軍足利義昭と織田信長が対立していたが、如安は足利方に組し、義昭の没落後も織田氏に敵対する行動を取った。ついに1578年(天正6)、織田方の将・明智光秀の攻撃にあって八木城は落城、ただしフロイスの文書によると如安はこのとき堺にいた足利義昭に随行していたという。
その後しばらく足利義昭に供奉して備後・鞆(現在の広島県福山市鞆町)にあったが、1585年(天正13)ころに小西行長を知り、彼に仕えるようになった。行長は如安を重用して重臣に取り立て、小西氏を名乗ることを許した。文禄の役の際の明との和議交渉では使者となり、北京へ赴いており、この際の明・朝鮮の記録では彼を「小西飛」(小西飛騨守の略)として表記している。
1600年(慶長5)9月、関が原の戦いで主君行長は西軍の主力として戦って敗れ、斬首された。如安は同じキリシタンである肥前の大名である有馬晴信の手引きで平戸へ逃れ、その後加藤清正・前田利長の客人となった。前田氏の居城、金沢城には同じくキリシタンである高山右近がおり、ともに熱心に布教活動や教会の建設に取り組んだ。しかし1613年(慶長19年)、徳川家康からキリスト教徒の追放令が出され、前田氏にも通達が及んだ。ついに翌1614年、内藤如安も高山右近と共に呂宋(今のフィリピン)のマニラへと追放された。到着先のマニラでは総督以下住民の祝砲とともに迎えられるなど手厚い歓迎を受けている。
マニラではイントラムロス近くに日本人キリシタン町サンミゲルを築き、12年後の1626年(寛永3)、病死した。現在はサンミゲル近くの聖ヴィンセント・ポール教会に終焉の地の記念の十字架が建っている。