出雲国造
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出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)は、出雲国(現在の島根県東部地方)を古代に支配した氏族・出雲氏の長が称した称号である。代々出雲大社の祭祀を受け継いだ。
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[編集] 概要
出雲国造は、国譲りに応じた大国主命を祀る為、天日隅宮(あめのひすみのみや=出雲大社)の祭祀を担った天穂日命(あめのほひのみこと)を始祖とする。
実際は、弥生時代から古墳時代にかけて出雲地方を中心に大きな勢力を誇った出雲氏が、ヤマト王権下において出雲国造に任ぜられたものとみられる。国造制は大化の改新以後、全国的に廃止される方向に進んだが、出雲国造、紀伊国造など、ごく一部のみが存続を許された。
律令制下における出雲氏は、出雲国東部の意宇郡に居を構え、出雲国造と意宇郡郡司を兼帯していたが、延暦17年(798年)に兼帯が禁じられたことにともない、以降その拠点を杵築(現在の出雲大社周辺)に移した。元々出雲国造家の発祥は意宇郡であり、出雲大社と同時に熊野大社における祭祀も行っていた。現在でも国造の代替わりの儀式である「火継式」に際しては、熊野大社と神魂神社にて儀式が行われる。
その後、現在に至るまで、出雲大社の祭祀長を示す称号として出雲氏の子孫が世襲している。出雲国造家は、南北朝時代(1340年頃、康永年間)以降、千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)の二氏に分かれ、それぞれが出雲国造を名乗り、幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担していた。 千家氏は、茶道の千家と混同されることがしばしばあるが、千家氏の苗字は「千家」であり、茶道の方は「千」で、全く関係がない。 現在では、千家氏は出雲大社教(いずもおおやしろきょう)、北島氏は出雲教とそれぞれ宗教法人を主宰しているが、出雲大社自体は神社本庁の傘下であり、宮司は千家氏が担っている。
[編集] 出雲国造神賀詞の奏上
奈良・平安時代の出雲国造は、その代替りごとに朝廷に参向して「出雲国造神賀詞」を奏上する儀礼を行っていた。 儀式の次第は「延喜式」に記されており、それによればまず新しく国造となった者は朝廷に上って新任の式を行い、天皇から「負幸物」を賜る。その後出雲に帰って一年間潔斎をした後、再び朝廷に上り、神宝・御贄を献って神賀詞を奏上する。そして出雲に帰ってまた一年の潔斎を行い、再び朝廷に参向して献物を捧げて神賀詞を奏上するという。
文献の記録では、霊亀2年2月に第23代国造出雲臣果安が奏上したとの記事(「続日本紀」)が初見であり、以後天長10年4月の第33代国造出雲臣豊持による二度目の奏上(「続日本後紀」)まで15回の記録がみられる。しかしこれはあくまでも文献上であり、実際は最初の奏上が果安以前の国造であったり、最後の奏上が豊持以降の国造である可能性は高い。また神賀詞の内容や儀式の次第についても記録は延喜式制定時点のものであり、各代の奏上において同一ではなく、時代を追って変遷していると思われる。
奏上儀式の起源については、朝廷が古代の在地勢力による服属儀礼を、代表として出雲国造に命じて行わせたとする説や、出雲国造が自らの系譜を朝廷の神話体系の中に売り込むべく始めたとする説などがあり、定かではない。しかしいずれにしろ、この儀式は古代日本において他の国造にみられない出雲国造独特の儀式であって、記紀神話において出雲神話が非常に大きなウェートを占めていることや、国造制の廃止後も出雲国造が存続された理由とも切り離すことのできない儀式である。
また、第83代国造千家尊祀は国造を継いだ翌年の昭和23年6月、宮中に参内して出雲玉造産の御統玉三種一連を献上し、古代以来の神賀詞奏上を行った。
[編集] 国造家の分裂
南北朝時代の第54代国造孝時は、六郎貞孝を寵愛し、国造を継がせようと考えていたが、孝時の母である覚日尼から「三郎清孝は病弱であるが兄であるので、後に貞孝に継がせるとしても、まず一時的にでも兄である清孝に継がせるべきだ」と説得を受け、清孝を後継者とした。その後清孝が第55代国造となったが、やはり病弱であったため職務を全うできず、弟の五郎孝宗を代官として職務のほとんどを任せ、そのまま康永2年(興国3年/1343年)、国造職を孝宗に譲ることとした。 これに対して貞孝は自分に国造職を譲るのが本来であると猛烈に反発し、神事を中止し、軍勢を集めて社殿にたてこもるなど、紛争状態となった。
事態を重く見た守護代の吉田厳覚は両者に働きかけ、年間の神事や所領、役職などを等分するという和与状を結ばせた康永3年(興国4年/1344年)6月5日)。以降、孝宗は千家氏、貞孝は北島氏と称し、国造家が並立する形で現在に至る。なお、明治時代には千家氏・北島氏ともに男爵として遇されている。
[編集] 火継式(神火相続式)
火継式は出雲国造が代替わりの際に行う儀式であり、神火相続式とも呼ばれる。
前国造が帰幽(死去)した際、新国造は喪に服す間もなくただちに社内の斎館に籠もって潔斎した後、燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりきね)もって熊野大社に参向する。そして熊野大社の鑽火殿にて燧臼・燧杵によって火を起こし、鑽り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる。 その後、神魂神社において饗宴を受けた後、出雲大社に戻り、奉告の儀式を行い、火継式は終了する。この儀式にて鑽り出された神火はその後、国造館の斎火殿にて保存される。国造は在任中この火によって調理したものを食べるが、国造以外は家族であってもこれを口にすることは許されないという。
火継式の「火」は「霊(ひ)」であり、その火をもって調理されたものを食べることによって、天穂日命以来代々の国造の霊魂を自らの中に取り込むのだとされている。
[編集] 歴代出雲国造
[編集] 千家家
[編集] 北島家
- 56代:北島貞孝
- 76代:北島脩好 出雲教を設立。
- 79代:北島英孝
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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