前田玄長
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前田 玄長(まえだ はるなが、貞享3年(1686年) - 宝暦2年4月13日(1752年5月26日))は、江戸幕府の高家旗本。公家右大臣三条西実条の孫・大納言押小路公音の次男。生母は大納言河鰭実陳の女。幼名は未左丸(ひさまる)、通称は式部。官位は従四位上左近衛権少将・出雲守。隠岐守。高家・前田家(藤原北家公季流押小路庶流)初代の当主。
元禄15年(1702年)閏8月、17歳で京都より召出され、同月15日、五代将軍徳川綱吉に御目見し旗本となり、小姓並として稟米300俵を賜る。同年12月3日従五位下侍従・出雲守に叙任し、300石を加増となり、武蔵国多摩郡内で600石を知行することになった。宝永元年(1704年)1月9日、武蔵国内で300石加増、宝永4年(1707年)1月9日には相模国愛甲郡内で500石を加増され、計1400石の知行となる。宝永6年(1709年)2月21日高家役に轉役となり、隠岐守と改称(延享2年(1745年)9月に再度出雲守に改称)。享保16年(1731年)10月28日高家肝煎役となる。延享2年(1745年)10月、九代将軍徳川家重の将軍宣下に付、京都へ御使となり、松平讃岐守頼恭の差添役を務める。同年12月に従四位上左近衛権少将に昇進する。
宝永6年(1709年)より宝暦2年(1752年)4月13日に死去するまで、高家役として務めた43年間の内、高家肝煎役を21年務め、京都御使、伊勢神宮、日光東照宮、三州瀧山東照宮への将軍御名代など29回の御役を務めている。元禄15年(1702年)に五代将軍綱吉に仕えてから、六代家宣、七代家継、八代吉宗、九代家重と歴代五人の将軍に仕えた玄長は、旗本として50年間を務め、67歳で没した。天台宗の市ヶ谷自證院に葬。法号・大忠院前羽林次将義山速證大居士。 正妻は内藤政貞の養女・内藤播磨守政醇の義姉。養子房長(実父松平金七郎康郷)ら一男一女あり。
[編集] 参考文献
- 「前田家先祖書」
- 「前田家系譜」
- 『新訂寛政重修諸家譜』