創氏改名
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創氏改名(そうしかいめい)は、大日本帝国において朝鮮総督府が本籍地を朝鮮に有する日本臣民(以下朝鮮人という)に対して実施した政策のこと。昭和十四年制令十九号で定められた「創氏」は強制で、昭和十四年制令二十号で定められた「改名」は任意であり、手数料を取られた。目的についてはさまざまな説がある。
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[編集] 概説
本来台湾と同様、改姓名であってよいはずだが、朝鮮では「同族娶らず」の慣習(同じ出自=家系の出身地域でしかも同じ苗字の人とは結婚できない慣習。これは韓国建国後も長らく残っていたが、最近廃止された)があったため、この慣習を続けられるように本貫と姓を残したまま氏を新たに創るという形にした。一方、同時期に日本が統治していた台湾では、このような慣習が無かったため、創氏はせず、単に改姓名が行われた。
創氏には「設定創氏」と「法定創氏」があり、1940年2月11日から8月10日までの半年間に届出されたものが「設定創氏」で、届出の無かったものについては「法定創氏」として家長の姓(朝鮮風であれ日本内地風であれ、その時点での姓)を氏として採用し、併せて内地風の氏を名乗ることも認めた。内地風の氏に合うように改名も許可されたが、改名は任意であったため、手数料を取られた。また、これと同時に従来の朝鮮法では禁止されていた婿養子制度も導入された。これも創氏改名に含むこともある。
設定創氏と改名は、当初(1940年2月)任意による届出制であったが、4月の道知事会議で「きたる7月20日迄に全戸数の氏届出を完了する様特段の配慮相成りたし」などの訓示があり行政側が推進することとなり、4月を境に設定創氏した戸数は急上昇に転じ最終的には朝鮮在住朝鮮人の80.3%が設定創氏をした1。この点について、
- 設定創氏をしないものに対して地方機関が行政的な強要、嫌がらせを行った結果であるとする見方がある
- また、このような強要が単に末端吏員の暴走によるものであったという見方
- 植民地政府全体の意思であったという見方
- 他方、ほとんどの朝鮮人は国内外における日本内地人との(主に満州の在来住民から受ける)差別を回避するために自発的に創氏したのだという見方もある。
なお朝鮮に在住していた朝鮮人で改名した者の割合は9.6%にとどまった。日本内地に在住していた朝鮮人の間では、設定創氏をした者の割合は14.2%にとどまった。
[編集] 総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」
1909年、大韓帝国は日本の指導に基づき民籍法を制定し、近代的戸籍の整備を開始した。女性については父姓と続柄・年齢などだけを記載するなど、朝鮮の慣習と衝突しない事にも留意したため、整備が終了したのは併合直前の1910年4月であった。この時一部の朝鮮人が日本内地風の姓名で届けを出すなどして混乱が生じたとして、当時の朝鮮総督府は1911年11月11日、総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」などの通牒によって、「内地人ニ紛ハシキ姓名」を許可しないこととし、出生届などでも内地風の名前を届けることに厳しい制限をつけた。また既に内地風の名前で民籍に登録した朝鮮人には元の名前に戻す措置がとられた。 この一連の処置は近年、「創氏改名は朝鮮人が望んだものである」とする意見の根拠の一つとなっている。
[編集] 創氏改名政策の意図と実態についての諸説
台湾や朝鮮では、父系の血縁による家族制度が伝統的に存在している。なぜ父系の血縁による家族制度が取られているのかというと、儒教の考えで、祭祀を行えるのは父系の血縁に連なる男子のみとされているからである。この背景により、今日でも朝鮮半島や中国・台湾では、結婚しても女性は改姓しない。金氏のところに生まれた順子は結婚しても金順子と名乗るわけで、朴氏という男性と結婚したからといって朴順子と名乗ることはない。 一方、多くの欧米諸国や日本では、結婚すると男女のどちらかが姓を変えて夫婦で氏を統一する(現状、女性が変えているケースが多い。男性が変える場合、日本では伝統的に、それは「婿養子」を意味した。尚、皇族は姓そのものがないので、員数外扱とみなしうる)。夫婦で姓を統一するにあたり、姓を変える側は、結婚後の姓のみを名乗る(結婚前の姓の使用を止める)ことになるか、欧米諸国などミドルネームの習慣がある社会では結婚前の姓をミドルネームに付け加えることもある。
日本統治下の朝鮮においても、朝鮮人は日本内地に適用される戸籍法の適用を受けず、朝鮮の慣習家族法に基づく朝鮮戸籍令(大正11年朝鮮総督府令第154号)による戸籍が別途編成されていた。この戸籍のあり方を、日本内地のそれに近しいものに、変更したのが創氏改名政策である。
政策の目的については諸説ある。最も有力な政策意図解釈は、直接的な契機に注目したもので、徴兵制の施行を準備するためだったというものである(宮田節子)。また、欧米近代国家には存在しない、クランネームである姓を朝鮮人が名乗り続けることによって、近代化の障害になることを日本政府および総督府側が懸念したためであるという説もある。また近年、上記の総督府令第124号の存在を根拠とし、国内外において、日本内地人とは別の国民、民族として差別を受けていた朝鮮人の要望に基づくものであり、日本はそれを許可しただけであるとの説もある。この説を支えるものとして「別冊正論」http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/ex-pub/ex01.html 『〈覆面座談会〉全国紙政治部記者・月刊誌編集者・週刊誌記者』 本記事中の麻生太郎、野中広務、奥野誠亮のやり取りが指摘されている。概略として、野中に対して総督令に判子をついたのは内務官僚であった奥野誠亮であったとの発言である。
日本の一定数の歴史学者や関連する評論家たち、韓国の多くの論者、朝鮮民主主義人民共和国当局等は日本内地風創氏が例外なく強制的に行われ、朝鮮姓を奪われたと主張している。これに対し、実際には、彼らの言うような日本内地風氏名の強制はしておらず、あくまで戸主の判断に委ねられていたという考え方がある。この考え方は日本内地風氏の設定創氏の届出を行わず、自動的に朝鮮風の朴氏や金氏で法定創氏された人たちが著名人を含めいたことを根拠にしている。具体例として、陸軍中将洪思翊や、半島の舞姫と言われ、森鴎外の『舞姫』のモデルになったといわれる舞踏家の崔承喜、東京から出馬して、2度衆議院議員に当選した朴春琴、その他多数の朝鮮貴族、道知事を初めとする総督府官僚などをあげることが多い。 また李王垠、李鍵公、李鍝公などの王公族は皇族と同様に、戸籍法令の適用を受けなかったため、当然に創氏改名政策の対象ではなかった。
これに対しては、そもそも同じ名前であっても、朝鮮固有の家族法に基づいた姓名と、日本法に基づく氏名は別物であって、氏名を公称として名乗らされたことに問題の本質があるのだという反論がある。それが氏名であればたとえ「朝鮮風」ではあっても「朝鮮式」ではないとする。また、創氏改名と同時に夫婦同氏制も導入されたため、法定創始された男性であっても、その異姓の夫人は、公称の変更を強制された(朴○○の夫人である金**は本人の意思に関わらず法定創氏後は朴**となる).
日本政府の意図が社会構造の根本的な変革にあると考えた一部の人は、総督府を通じて行われた日本政府の度重なる呼びかけに最後まで応じなかったとされる。朝鮮風であろうが日本風であろうが、伝統にないファミリーネームである氏を名乗らされることに反発したのである。
[編集] 創氏改名後も朝鮮風氏名を名乗り続けた著名人
[編集] 創氏改名の経過表
- 出身地・同族名 家族名 個人名
- (本貫・姓) (氏) (名)
- ↑ 夫 金海金 (無) 武鉉 ※金海金氏、金武鉉と表す
- ↑ 妻 慶州李 (無) (無) ※族譜に女性名は不記載
- 1909年以前 族譜に記録 (族譜は本家の長老が管理、姓の無い国民も大勢いた)
- 1910年以降 民籍法制定 (姓の無い国民は日本名を付けたりした。例 東京太郎)
- ↓ 夫 金海金 (無) 武鉉 ※姓名 金武鉉
- ↓ 妻 慶州李 (無) 撫兒 ※姓名 李撫兒
- 1940年以降 創氏改名 (法律名の変更 姓名→氏名)
- ↓ ・法定創氏 (日本名を希望しなかった場合)
- ↓ 夫 金海金 金 武鉉 ※氏名 金武鉉
- ↓ 妻 慶州李 金 撫兒 ※氏名 金撫兒
- ↓ ・設定創氏 (日本名を希望した場合)
- ↓ 夫 金海金 大和 武鉉 ※氏名 大和武鉉
- ↓ 妻 慶州李 大和 撫子 ※氏名 大和撫子
- 1946年以降 朝鮮姓名復旧令
- ↓ 夫 金海金 (無) 武鉉 ※姓名 金武鉉
- ↓ 妻 慶州李 (無) 撫兒 ※姓名 李撫兒
- 創氏の申請猶予期限は6ヶ月、改名は期限なし。
- 子供は夫の本貫及び姓を継承する。
- 未婚女性の子供は女性の本貫及び姓を継承する。
- 出身地及び同族名(姓)は結婚しても一生変えることは出来ない。
- 朝鮮の慣習法では同姓同本(廃止)、8親等以内の血族、6親等以内の血族の配偶者は結婚できない。
[編集] 脚注
- 1940年4月の時点で届け出があったのは全戸数の3.9%であったが、8月10日には80.3%まで上昇した。また、創氏に反対する言説を保安法などによって取り締まった。水野直樹「『創氏改名』の実施過程について」『朝鮮史研究会会報』154号、2004年。