加瀬俊一 (1920年入省)
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加瀬 俊一(かせ しゅんいち、1897年10月23日-1956年9月9日)は大正・昭和期の外交官。太平洋戦争終戦当時の駐スイス公使で、戦後西ドイツ大使を務める。東京都出身。外務大臣秘書官や国連大使を務めた加瀬俊一 (としかず)(加瀬英明の父)とは同姓同名の別人である。外務省内では彼と区別するため「大加瀬」と俗称されていた。
東京生まれ。早稲田中学校、第一高等学校から東京帝国大学に進むが、大学在学中の1920年に高等試験外交科試験に合格したために、大学を中退して外務省に入省する。1935年に欧亜局第一課長、1938年に駐アメリカ大使館の一等書記官となる。太平洋戦争開始後の1942年にイタリア公使となり、1944年には中立国であったスイス公使となった。
1945年に入ると、アメリカ戦略事務局(Office of Strategic Services(OSS) ・CIAの前身)の職員であったアレン・ウェルシュ・ダレス(後のCIA長官)と面識を持った加瀬は彼を仲介に立てて日米の早期和平を実現させることを思いついて、ダレスからも同意を得た。だが、アメリカ戦略事務局はその性格上敵国政府に公にすることの出来ない組織であり、ダレスがアメリカ政府ときちんと繋がった人物である事を日本本国の外務省に証明する事が困難であった。そのため、外務省としても「正体不明」の人物を仲介させた和平交渉には躊躇したために実現する事はなかった(「ダレス工作」)。8月、日本政府がポツダム宣言受諾を決めると、中立国公使であった加瀬は連合国代表に対して同宣言受諾の外交ルートによる正式な通知を行った。
戦後、1952年にメキシコ大使、翌年には西ドイツ大使を歴任したが、西ドイツで体調を崩して一時帰任する。日本で療養に努めるも、1956年に病没した。