化粧坂
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化粧坂(けわいざか)は鎌倉七口のひとつに数えられ、主に武蔵国の国府(現在の府中・国分寺)から上野国へ向かう道(通称上道)の出口と考えられているが、鎌倉時代初期には武蔵国の東の方へ向かう中道、下道もまたここを通った可能性もある。
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[編集] 名の由来
名の由来は様々。
- 平家の大将の首を化粧して首実検したから
- この辺に遊女がいたからという説
- 険しい坂が変じたという説、
- 坂の上が商取引が盛んで「気和飛坂」
- 木が多いので「木生え坂」など。
ただし、ほとんどは後世の想像の産物と思われる。
「化粧」を「ケショウ」と読むとそれは現在の意味の通りに「白粉でお化粧」の意味であるが、古くは「ケワイ」とも読み、その場合は「身だしなみを整える」と言う意味に使われる。
その意味からは「都市」=「ハレの場」に入る境で「身だしなみを整える」と言う意味で「ケワイ(化粧)坂」、つまりは「鎌倉中」への境界である坂との意味と考えるのが自然であると言う説がある。(「中世都市鎌倉の実像と境界」p178 五味文彦)
鎌倉以外の「化粧坂」の伝承の中にも境界で「身だしなみを整える」と解釈出来るものがあり、「境界の場の呼称」として「化粧坂」と通称されていたそのひとつとも考えられる。
[編集] 鎌倉時代・南北朝時代の文献では
文献上のは鎌倉時代の吾妻鏡・建長3年(1251)12月3日の条で、「鎌倉中小町屋の事定め置かるる処々」の中に「気和飛坂山上」と出てくるのが初見、ただし吾妻鏡には複数の写本があり、北条本には「乗和飛坂」とある。このことから吉田東吾の「地名辞書」では「乗和」をアマノワと読み甘縄の魚町との説も出しているが、あまり賛同は得られていない。
あとは1333年の北条氏滅亡の時であり、「太平記」には「粧坂」。「梅松論」には化粧坂の名は出ないが化粧坂山上の北側の「葛原」が戦場として登場し、新田義貞はここを突破できず、稲村ヶ崎から鎌倉中に攻め入った。
以上から「葛原ヶ岡」のすぐ傍の「化粧坂」が当て字で「気和飛坂」となることによって、吾妻鏡建長三年(1251)12月3日の条にある「気和飛坂」が現在我々が認識している「化粧坂」となる。
なお、鎌倉の入口に関して、鎌倉時代の「とはずがたり」が明らかに極楽寺坂切通しであるところを「化粧坂」と呼んでいるが、上記の解釈からは理解出来る。しかし、建長3年に極楽寺坂は出来ていないので吾妻鏡にある「気和飛坂」は現在の「化粧坂」となる。
[編集] 「化粧坂」の道筋
「化粧坂」の鎌倉側の道筋について「鎌倉市史総説編」(高柳光寿著 S42年再版)で、化粧坂山頂から亀ヶ谷辻を通り、寿福寺前を曲がって現在の鶴岡八幡宮一の鳥居・太鼓橋(当時は赤橋)の前へ至る道を「鎌倉中の武蔵大路」としている。
それらを総合すると、鎌倉の中心から武蔵国の中心(府中)へ向かう道の鎌倉の内と外の境界が「化粧坂」であり、建長3年(1251)以前から坂上には武蔵国方面の物流の拠点として今でいう市場、商店街が開かれ、賑わっていたと言うことになる。
[編集] 「化粧坂」の現在
また鎌倉滅亡の2年前、元弘の変(1331年)で捕らえられた日野俊基がこの坂上で首を切られ、明治時代になって日野俊基を祭る葛原岡神社が建てられている。また現在は日野俊基の墓が鎌倉ライオンズクラブにより建てられている。
現在は鎌倉の内側(鎌倉中)への下り坂が「化粧坂」として史跡に指定されているが、道の痕跡はいくつもあり、鎌倉時代にどのルートであったのかは必ずしも明らかではない。 また、その外側の道も不明であり、明治15年の帝国陸軍のフランス式1/20000地図には梶原方面への道が一番太いが、その他に洲埼方面への尾根沿いの道、また北鎌倉方面への数本の道、また北条常盤亭方面への尾根道も記載されており、尾根道の交差点であるかのような姿となっている。