北条氏勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北条 氏勝(ほうじょう うじかつ、永禄2年(1559年) - 慶長16年3月24日(1611年5月6日))は、小田原後北条氏の一族。北条綱成の孫で、北条氏繁の次男。北条氏舜の弟に当たる。弟に繁広(のち氏勝の養子。北条氏長の父)らがいる。北条左衛門大夫。
兄・氏舜の死後、家督を継承した。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、伊豆国山中城に籠もって戦ったが、豊臣軍の猛攻の前に落城する。氏勝は落城前に辛くも城を脱出して自害を図るが、弟の直重・繁広の諫言に従って本拠である相模国玉縄城へ逃げ込んで籠城する。だが、ここも徳川家康に攻められて同年4月21日に降伏を余儀なくされた。秀吉も同日に出された在京の真木島昭光あての書簡で氏勝の降伏を許可した件に触れて、前将軍足利義昭に対して豊臣方が優勢である事の言伝を依頼している。
以後、氏勝は家康の家臣として仕えるようになり、下総国岩富藩1万石の藩主となった。その後領内の基盤整備を進める一方で、関が原の合戦などで功績を重ね、徳川秀忠の信頼も厚かった。死後、養子の北条氏重が後を継いだ。一説には弟の繁広を嫌った重臣が家康の甥にあたる氏重を養子に迎えたとも言われている。
|
|
|