北条氏長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北条 氏長(ほうじょう うじなが、慶長14年(1609年) - 寛文10年(1670年))は、江戸時代前期の幕臣、軍学者。後北条氏家臣であり一族でもあった北条綱成の曾孫であり、父は北条繁広。幼名は梅千代。通称は新蔵。後に氏永・正房と改名する。官位は安房守。北条流軍学の祖。江戸に生まれた。
目次 |
[編集] 生涯
慶長17年(1612年)、4歳の時に父が急死する。父は本来であれば実兄で養父にあたる岩富藩主北条氏勝の後を継ぐべき人物であったが、重臣達の妨害で家督を継げずに憤死したのである。これを憐れんだ大御所徳川家康は氏長養育のために禄高5百俵を与えた。2年後に家康に謁見して、更に元和2年(1616年)に2代将軍秀忠に謁見。寛永2年(1625年)小姓組として召し出され、正式に禄高5百俵の旗本となる。その後は徒頭、鉄砲頭、持筒頭、新番頭を歴任し、承応2年(1653年)、従五位下安房守に叙任。明暦1年(1655年)から寛文10年(1670年)まで大目付を勤めるまでに累進した。石高も最終的に2千石を超え、堂々たる大身旗本となった。
[編集] 軍学者
小幡景憲に甲州流軍学を学び、それを改良し北条流兵法を開いた。「兵法雄鑑」「雌鑑」「士鑑用法」など多くの軍学関係の書籍を残しており、また幕府の軍制を整備して慶安の軍役令を起草している。
氏長の兵法の特徴はまず、それまでの"軍学"や"軍法"といった言葉ではなく"兵法"という言葉を用いたことである。これまでの軍法は抽象的、概念的なものや武士の心得といったものが多分に含まれていたが、氏長の"兵法"は「実践に役立つ軍事学のみ」であった点が大きい。後述する測量の知識や功績などから考えるに、多分に実践的、理知的な性格だったのではないだろうか。
例えばこうである。
「篭城してる時、敵が銃弾や弓矢を撃ってくる時、負けじと反撃するのは損である。 そういう時は敵はいきなりは襲ってこないものである。 攻め手兵がこちらの石垣や塀に取り付いている時こそ、矢玉を使うチャンスである。 身を乗り出してでも撃つべきである。 なぜなら攻め手側の射撃手は”味方兵に当たるのを恐れて”撃ってこないから。」
慶安3年(1650年)には、後述するオランダ人ユリアン・スハーデルによる攻城実演をまとめ上げた本邦初の洋式攻城・築城術書「由利安牟攻城傳」(ユリアンと読む)を将軍家光に奏上している。
[編集] 地図の革命者
また、彼を語る上で欠かせないのは「地図」である。 慶安3年(1650年)、江戸郊外武蔵野の原野にて幕府主催の"オランダ人指導による大砲を用いた攻城戦の演習"が行われた。軍学者であり幕府中枢の官僚でもあった氏長はこの機会を参加観覧および学習している。この時、正確な大砲射撃のための必要性から洋式測量術(規矩術)を習得したと言われている。
正保元年(1644年)、全国諸藩に対し幕府は、各藩の地図(絵図)を提出するよう命じた。この提出された膨大な絵図面を元にして、幕府は日本全図(地図)の製作に取り掛かる。その仕事に就いたのが氏長であった。数年後の慶安4年(1651年)に「正保日本図」と呼ばれる地図が完成し、幕府に奏上された。
この際幕府(氏長?)は6寸1里(21600分の1)縮尺を用いるよう諸国に命じたため、以後諸国の地図はおよそ同縮尺に統一された。
江戸市中が明暦の大火(明暦3年(1657年)1月)に見舞われた際、当時大目付であった氏長は、まさに打ってつけの人材として"江戸市中の実測図の作成と区画整理の責任者"を命じられる。この際、長崎にて洋式測量術(規矩術)を習得した金沢清左衛門(肥前島原藩出身。主家改易後浪人中であった、とされるが高力隆長の改易は寛文8年(1668年)まで下り、微妙に年代が合わないかもしれない)を抜擢登用し、実作業に当たらせている。被災後の江戸に対し、半月ほどの集中測量を経て「明暦江戸実測図」が製作されたと言われている。従来の絵図面という表現ではなく、正確な測量に基づいたこの市街地図は画期的であり、これ以降の江戸市街地図の基本となり、その後刊行され、民間に地図が普及するきっかけになったと言われている。 ただし刊行版は精密すぎたため、大判五枚に分割されており、使い勝手は悪かったそうである。 死去前年である寛文9年(1669)にも、日本全図を再度編纂し、幕府に提出している。
[編集] 子孫
子は養子含めて男女とも数人(氏如など)いるが、長男氏平が家を相続し、次男元氏が分知を受けて別家を興した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 新版江戸地図(東京都立図書館サイト内)