北畠八穂
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北畠 八穂(きたばたけ やお 1903年10月5日 - 1982年3月18日)は青森県出身の作家、児童文学者、詩人。
本名、北畠美代。10人きょうだいの6番目の次女として青森市に生まれる。父は青森大林区署の役人。
1920年、青森県立青森高等女学校(現在の青森県立青森高等学校)在学中、『主婦の友』『婦人倶楽部』に投稿して入選を果たす。1922年、高等女学校卒業後に上京し、実践女学校高等女学部国文専攻科に入学したが、脊椎カリエスを病んだため1年半で中退し、青森に帰郷。
恢復後、1924年から青森県内の複数の尋常小学校に代用教員として勤務。しかし脊椎カリエスが再発したため、1926年に退職。病気療養中、『改造』に投稿したことが契機となり、同誌編集者の深田久弥と恋に落ちる。
1929年に上京し、千葉県我孫子や東京市本所区で深田と同棲。しかし、八穂の健康状態を理由に深田の父に反対されたため、入籍は叶わなかった。
八穂は文才豊かだったが、標準語で文章を書くことに困難があり、また自分が寝たきりであることに関して深田に負い目があったため、夫を蔭から支える形で深田に自らの原稿を提供した。それらの原稿に基づき、深田は『あすならう』『オロッコの娘』『津軽の野づら』『贋修道院』『鎌倉夫人』などの小説を発表し、新人作家として注目を浴びた。時には深田自身が独力で小説を書くこともあったが、それらはことごとく失敗作に終わった。
1940年に入籍し、深田姓となる。しかし1943年5月、深田の不実(八穂の目が及ばないのを利用して初恋の女性と秘密の逢瀬を重ね、子供まで儲けていた)を知るに及び、家庭は夫婦の葛藤で泥沼状態となった。
1947年、深田と離婚すると同時に、代作の件を全て世間に公表。以後は自分の名前で作品を発表した。
1948年、当時20代だった白柳美彦と同棲を始める。傍ら、『銀河』『少女クラブ』『ひまわり』『少年倶楽部』などの雑誌に童話を発表。
1962年、深田から受けた裏切りや代作の一部始終を小説『右足のスキー』に書いて発表。1972年、『鬼を飼うゴロ』で第10回野間児童文芸賞受賞。