東京市
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東京市(とうきょうし)とは、関東地方の南部、旧東京府の東部に1889年から1943年まであった市。現在の東京都特別区(23区)に相当する。
東京市の旧称は江戸であり、戦国時代には太田道灌の城下町、江戸時代には江戸幕府の所在地・徳川将軍家の城下町として栄えた。
第二次世界大戦中の1943年7月1日、東京都制の施行に因り、自治体としては東京府と合併する形で東京市は廃止され、東京都が設置された。1943年6月までの東京市役所の機能は、1943年7月以後は東京都庁に移されている。
東京都庁は、市役所と県庁の両方の機能を持っているが、東京都は多摩地方と島嶼、即ち旧東京市以外の区域もエリアとしているため、ソウル特別市やベルリン市のような「一市単独で広域自治体を形成する物」とは、性質の異なる自治体となっている。しかし、近年は特別区への権限委譲が進んでいる為、普通の道府県と変わらなくなっており、東京都の特殊性は形骸化している。
目次 |
[編集] 歴史
東京市(現在の東京都区部)の中心部は豊島郡に属しており、歴史書には「豊島郡江戸郷」と記述されていた。
※江戸時代の歴史については「江戸」も参照する事。
※経済史については「東京都#一極集中の歴史」を参照する事。
[編集] 律令時代
現在の東京都区部(1932年10月以後の東京市の範囲)は、豊島郡(中心部)以外にも、多摩郡東部、荏原郡、足立郡の一部、下総国葛飾郡の一部に相当する。近世初期に、葛飾郡のうち、隅田川から太日川(当時は渡良瀬川の下流、現代の江戸川)の間が、下総国から武蔵国に転属した。
[編集] 平安時代から江戸時代まで
武蔵七党が勢力を揮った時代には、関東に進出した畿内の河内源氏の家人となった。源平合戦では豊島氏、足立氏、葛西氏らが活躍している。
12世紀には豊島郡江戸郷の名が見え、この地を本拠とする江戸氏も興った。これ以後、当地は江戸と呼ばれるようになる。
戦国時代には扇ヶ谷上杉氏の家宰であった太田氏が台頭し、その一族の一人である太田道灌が、江戸城を本拠地として武蔵国を地盤としたが暗殺され、この後は小田原城を本拠地とする後北条氏の支配下に置かれた。
天正期の1590年になると、後北条氏が亡び、代わって徳川家康が駿府から江戸に転入する。やがて関ヶ原の戦いに勝利した家康は、1603年3月24日(旧暦2月12日)に江戸幕府を開き、江戸時代が到来する。ここに、首都は京都でありながら、江戸は行政庁所在地となった。
18世紀初頭には、江戸は人口100万人を超える世界有数の大都市へと発展を遂げていた。
[編集] 明治維新から第二次大戦まで
[編集] 明治期
1867年11月9日(旧暦10月14日)、徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府が崩壊した。その翌1868年に、江戸は薩長の率いる新政権(明治政府)の所在地となり、東京へと改名された。この明治政府が置かれて以来、東京には国家機関も置かれ、事実上の首都となった。
1869年に、明治天皇が皇居(旧の江戸城)に入ると、名実共に、東京は近代日本の首都となった(首都を京都から東京へ移す遷都令は無く、東京を首都とする法的根拠も無い、という意見もある)。
1868年5月、北町、南町両奉行所を廃し、町奉行管轄地を管掌する「市政裁判所」を旧南町奉行所に設ける。同7月、市政裁判所を「東京府」と改名し、翌8月、東京府幸橋御門外(現 東京都千代田区内幸町1丁目)の元郡山藩屋敷に東京府庁を開庁する。
1871年8月29日(旧暦7月14日)の廃藩置県により東京府は、品川県・長浜県(旧彦根藩飛地領)・小菅県・浦和県の一部を合して府域を拡張し、東京は東京府の府庁所在地となった。翌年東京府は、「戸籍法」の定めるところにより、新府域に繰り込まれながらも地名の判然としなかった旧耕地に、「有楽町」「霞ヶ関」「三田」など新町名を冠し、地券を交付する。
1878年7月、東京府は府下を区と郡に分かち、府税収入の多い地域を吟味選定のうえ、「郡区町村編制法」第2条の定めるところに従って旧幕時代の地称を付し、麹町・神田・浅草以下15区を設け、同時に旧街道宿場、農村部に荏原・南葛飾他計6郡を置いた。
1888年東京市区改正条例公布。政府の機関として東京市区改正委員会(委員長・芳川顕正元東京府知事)を置く。
1889年5月1日、前月施行の「市制・町村制」に基づき、東京府は府下に「東京市」を設け、旧東京府区部をもって市域となして、区部の財産管理を移掌した。同3月公布法律12号「市制中東京市・京都市・大阪市二特例ヲ設クルノ件」によって、府知事および府書記官が市長を兼務しており、東京市に自治権は与えられなかった。
1894年ドイツ・ルネッサンス様式の鉄骨レンガ造2階建の東京市役所が完成する。
東京・大阪両市有志同盟の請願が結実し、1898年10月1日「市制特例撤廃法」成立、府知事他の市長兼務を廃止。東京市に一般市制を敷く。
[編集] 大正期から第二次大戦終結まで
大正期に入ると、東京市への人口流入は更に進み、1920年の人口は370万人になったが、1923年9月1日には関東大震災に襲われ、特に下町が大打撃を受け、一時、面積が半分程度の大阪市の人口が東京市を抜くことにもなった。
又、大正年間に入る頃から、大東京という表現が見られるようになった。現在でも美称としてしばしば用いられるが、都市計画・都市改造の分野では、大正から昭和初期にかけて、具体的な広がりを持った区域の呼称として盛んに用いられていた。
多くの場合それは、従来の東京市(15区)と隣接5郡(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡)に、しばしば北多摩郡砧村・千歳村を加えた地域を指していた。1922年4月には旧都市計画法に基づき、東京市と上記6郡84町村が「東京都市計画区域」として定められた。即ち、現在の「23区」の区域に相当する。
1928年12月1日 - 人口規模で大阪市に追い抜かされる(東京市221万8000人、大阪市223万3800人)
1932年 隣接5郡82町村を編入し大阪市を逆転する。これは、市政面での「大東京」の統合の実現であり、当時使用された大東京市という呼称には、従来の東京市15区に対するより広域な東京市(Greater Tokyo)という意味が含まれている。
近衛文麿政権に入る前までは、大阪が日本の経済と産業の中心的な地位にあったが、近衛文麿以後の政権が戦時体制を敷いて、経済・産業・文化・芸術・教育、その他あらゆる分野の中枢を東京に集めた。
第二次世界大戦中の1943年7月1日、東京市は東京府と合併して廃止され、東京都となった。そして、戦争末期の1945年3月10日には、東京大空襲で甚大な被害を受けた。
[編集] 第二次大戦後
(→東京都#歴史)
[編集] 行政
※第二次大戦後の行政については「東京都」「特別区」を参照せよ。
※歴代の東京市長については「東京都知事一覧」を参照せよ。
[編集] 行政区画の変遷
1878年の郡区町村編制法により、東京府管下の中心部市街地に麹町区以下の15区が編成された。市街地に隣接する区域は荏原郡・東多摩郡・南豊島郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の6郡に編成される。このうち、東多摩郡と南豊島郡は1896年に合併されて豊多摩郡となった。
1889年5月1日、15区の区域をもって東京市が発足した。当初は東京府知事が市長を兼ねる変則的な自治体で、市役所も市職員も置かれなかったが、その一方で従来の15区はそれぞれ単独で区会(議会)を持ち東京市の下位の自治体とされた。1898年10月1日に特例が廃止されて一般の市制が施行され、麹町区有楽町の東京府庁内に市役所が開かれた(現・千代田区丸の内三丁目、東京国際フォーラム)。初代東京市長は松田秀雄である。また、尾崎行雄が2代目、後藤新平は7代目の市長を務めている。[1]
1932年10月1日に近隣の82町村(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域)を編入して、新たに20区を置き、35区となった。1936年10月1日、北多摩郡の砧村・千歳村を世田谷区に編入し、現在の東京都特別区(23区)の範囲が確定する。
第二次大戦中の1943年7月1日に、内務省主導で東京都制が施行され、地方自治体としての東京市と東京府は廃止され、東京都が設置された。旧東京市35区は従来通り、議会(区会)を持つ自治体としての性格を保ちながらも、東京都の直轄下の区とされ、従来東京市の吏員が任命されていた区長には官吏が任命されることとなり、東京都長官の指揮監督を通じて内務省による統制が強化された。
35区は1947年3月15日に22区に再編され、同年5月3日の地方自治法施行により同法の定める特別区となった。同年8月1日、旧練馬町ほか4村の区域が板橋区から分離して練馬区となって、現在の23区となった。
[編集] 行政区域の変遷
- 1878年 郡区町村編制法により以下の15区が編成される。
- 1889年5月1日 15区の区域で市制施行。
- 1898年10月1日 一般市制を施行。
- 1920年4月1日 豊多摩郡内藤新宿町を四谷区に編入。
- 1932年10月1日 隣接5郡82町村を編入。以下の20区を新たに編成。
- [旧荏原郡]- 品川区・荏原区・目黒区・大森区・蒲田区・世田谷区
- [旧豊多摩郡] - 渋谷区・淀橋区・中野区・杉並区
- [旧北豊島郡] - 豊島区・滝野川区・荒川区・王子区・板橋区
- [旧南足立郡] - 足立区
- [旧南葛飾郡] - 向島区・城東区・葛飾区・江戸川区
- 1936年10月1日 北多摩郡砧村・千歳村を世田谷区に編入。
- 1943年7月1日 東京都制により東京府と統合されて東京市は廃止。35区は東京都の行政区となる。
[編集] 東京市の名残
東京都の紋章[2]は東京市章を継承した物であるが、今はイチョウの葉を図案化したシンボルマークの方がよく使われる。「都民の日」に当たる10月1日は、一般市制による東京市発足の日に因んでいる。
[編集] 区の一覧
現在の東京都23区と、東京市35区との対照を以下に示す。強調したものは東京市設置当時の15区である。細字は1932年の市域拡張により新たに設置された20区。右欄に編入直前(1932年9月30日)の町村を示す。
東京市35区 | 東京都23区 | |
---|---|---|
麹町区 | 千代田区 | |
神田区 | ||
日本橋区 | 中央区 | |
京橋区 | ||
芝区 | 港区 | |
麻布区 | ||
赤坂区 | ||
四谷区 | (1920年4月1日に豊多摩郡内藤新宿町を編入) | 新宿区 |
牛込区 | ||
淀橋区 | 豊多摩郡淀橋町、大久保町、戸塚町、落合町 | |
小石川区 | 文京区 | |
本郷区 | ||
下谷区 | 台東区 | |
浅草区 | ||
本所区 | 墨田区 | |
向島区 | 南葛飾郡寺島町、吾嬬町、隅田町 | |
深川区 | 江東区 | |
城東区 | 南葛飾郡亀戸町、大島町、砂町 | |
品川区 | 荏原郡品川町、大井町、大崎町 | 品川区 |
荏原区 | 荏原郡荏原町 | |
目黒区 | 荏原郡目黒町、碑衾町 | 目黒区 |
大森区 | 荏原郡大森町、入新井町、馬込町、池上町、東調布町 | 大田区 |
蒲田区 | 荏原郡蒲田町、矢口町、六郷町、羽田町 | |
世田谷区 | 荏原郡世田ヶ谷町、駒沢町、松沢村、玉川村 (1936年10月1日に北多摩郡砧村、千歳村を編入) |
世田谷区 |
渋谷区 | 豊多摩郡渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町 | 渋谷区 |
中野区 | 豊多摩郡中野町、野方町 | 中野区 |
杉並区 | 豊多摩郡杉並町、和田掘町、井荻町、高井戸町 | 杉並区 |
豊島区 | 北豊島郡巣鴨町、西巣鴨町、長崎町、高田町 | 豊島区 |
滝野川区 | 北豊島郡滝野川町 | 北区 |
王子区 | 北豊島郡王子町、岩淵町 | |
荒川区 | 北豊島郡南千住町、三河島町、日暮里町、尾久町 | 荒川区 |
板橋区 | 北豊島郡板橋町、上板橋村、志村、赤塚村 | 板橋区 |
北豊島郡練馬町、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村 | 練馬区 | |
足立区 | 南足立郡千住町、梅島町、西新井町、江北村、舎人村、伊興村(早房・北根・横沼・下戸・小西嶋・大西嶋)、淵江村、東淵江村、花畑村、綾瀬村 | 足立区 |
葛飾区 | 南葛飾郡本田町、奥戸町、南綾瀬町、亀青村、新宿町、金町、水元村 | 葛飾区 |
江戸川区 | 南葛飾郡小松川町、松江村、瑞江村、葛西村、鹿本村、篠崎村、小岩町 | 江戸川区 |
なお、練馬区は1947年8月に板橋区から分置されたものである。
[編集] 交通
(→「東京都#交通」内の「東京特別区」のページを参照せよ。)
[編集] 教育
東京市は小学校と旧制中学校、高等女学校を設置していた。ナンバースクールの場合、府立は名称が「東京府立第○中学校(高等女学校)」だったのに対して市立の場合は「第○東京市立中学校(高等女学校)」だった。都制施行の際、東京市立の学校はすべて東京都に移管された。1948年に小学校は特別区に再び移管された。
- 第一東京市立中 ⇒ 東京都立九段中 ⇒ 東京都立九段新制高 ⇒ 東京都立九段高等学校 ⇒ 千代田区立九段中等教育学校
- 第二東京市立中 ⇒ 東京都立上野中 ⇒ 東京都立上野新制高 ⇒ 東京都立上野高等学校
- 第三東京市立中 ⇒ 東京都立豊島中 ⇒ 東京都立文京新制高 ⇒ 東京都立文京高等学校
- 第一東京市立高女 ⇒ 東京都立深川新制高 ⇒ 東京都立深川高等学校
- 第四東京市立高女 ⇒ 東京都立竹台新制高 ⇒ 東京都立竹台高等学校
[編集] 関連項目
[編集] リンク
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