深田久弥
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深田久弥(ふかだきゅうや、1903年3月11日 - 1971年3月21日)は、石川県大聖寺町(現在の加賀市)生まれの作家。旧制福井中学(現・福井県立藤島高等学校)から第一高等学校に進み、文芸部で堀辰雄や高見順と知り合う。また山岳部員として山にも親しんだ。俳号は九山。
東京帝国大学文学部哲学科に在籍しつつ、1927年、当時円本ブームに沸いていた改造社に入社。懸賞小説の下読みをする過程で北畠八穂と知り合い、恋に落ちる。やがて北畠と同棲を始めるとともに『オロッコの娘』などの小説を発表。これらの作品が好評だったことに勇気を得て、1930年に大学と勤めを辞めて文筆一本の生活に入った。
1932年に発表した『あすならう』で文壇的評価を確立したが、実は『あすならう』も『オロッコの娘』もその他の作品も、北畠の作品の焼き直しであった。このことに気付いた小林秀雄や川端康成から厳しくたしなめられたため、時には深田自身が独自に作品を書くこともあったが、全くの駄作に終わった。
1940年3月に北畠と入籍したが、翌1941年5月に初恋の女性・木庭志げ子(中村光夫の姉)と再会して道ならぬ恋に落ちた。脊椎カリエスで寝たきりの北畠を差し置いて志げ子と逢引を繰り返し、1942年8月には志げ子が深田の子を出産。やがて北畠が夫の浮気を知ったため大騒ぎになったが、深田が召集されて中国大陸に出征したことで、夫婦間の紛争は一時棚上げとなった。
1946年に復員してからは再び北畠のもとに帰らず、志げ子と再婚。激怒した北畠に焼き直しの件を暴露されたため、作家としての深田の信用は暴落し、10年以上にわたる雌伏生活を余儀なくされた。
その後、登山仲間の小林秀雄から一喝されたのをきっかけとして山の文章中心の執筆活動を行う。特に1959年から1963年にかけて発表した『日本百名山』は高く評価され、読売文学賞を受賞。人気作家に返り咲いた。1968年、日本山岳会の副会長に就任。
1971年、登山中の茅ヶ岳(1,704m)で病死。脳卒中であった。
同郷の中谷宇吉郎は幼稚園、小学校、大学で先輩になる。 また、弟子に中島敦がおり、中島敦の遺稿から『李陵』を発見したのは深田である。この時遺稿には題名がついておらず、深田が題名を付した。