西行
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西行(さいぎょう、1118年(元永元年) - 1190年3月23日(文治6年2月16日))は、院政期から鎌倉時代初期にかけての僧侶・歌人。 父左衛門尉佐藤康清、母源清経女。俗名佐藤 義清(さとう のりきよ)、法号は円位ともする。
勅撰集では詞花集に初出(一首)。千載集に十八首、新古今集に九十四首(入撰数第一位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者に擬せられている。
目次 |
[編集] 西行の生涯
保延元年(1135年)に兵衛尉に任ぜられ、同三年(1137年)鳥羽院の北面の武士として奉仕していたことが記録に残る。同六年(1140年)二十三歳で出家して円位を名のり、後西行とも称した。その動機には諸説あっていずれとも定めがたいが、一説に白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子への恋着のゆえであったとも言われ、これを題材に辻邦生が『西行花伝』をあらわしている。他にも、西行の生涯を知る上で重要な書物の1つである「西行物語絵巻」(作者不明、二巻現存。徳川美術館収蔵。うち、一巻は、阿波蜂須賀家に伝来し、2004年に閉館した萬野美術館に所蔵されていた。)では親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。
出家後はしばしば旅に出て多くの和歌を残した。讃岐国に旧主崇徳院の陵墓白峰を訪ねてその霊を慰めたと伝えらえ、これは後代上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峰」に仕立てられている。なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。また特に晩年東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うために陸奥に下った旅は有名で、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。
年次に従って言えば、出家直後は鞍馬などの京都北麓に隠棲し、天養初年(1144年)ごろ奥羽地方へはじめての旅行。久安四年(1149年)前後に高野に入り、仁安三年(1168年)に中四国への旅を行った。このとき善通寺でしばらく庵を結んだらしい。後高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢二見浦に移った。文治二年(1186年)に東大寺勧進のため二度目の奥州下りを行い、伊勢に数年住ったあと河内弘川寺(大阪府河南町)に庵居。建久元年(1190年)にこの地で入寂した。
[編集] 西行に対する評価
『後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。歌風は率直質実を旨としながらつよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌のなかに取入れるなどの自由な詠みくちもその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかもしれない。
和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治三年(1187年)に自歌合『御裳濯河歌合』を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合『宮河歌合』を作って当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、俊成とともに千載集の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。
後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇・芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生れていった所以もまたここに存する。例えば能に『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。
[編集] 逸話
[編集] 出家
- 出家の際に衣の裾に取りついて泣く子を縁から蹴落として家を捨てたという逸話が残る。
[編集] 旅路において
[編集] 源頼朝との出会い
- 頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて一切忘れはてたととぼけたといわれている。
- 頼朝から拝領した純銀の猫を通りすがりの子供に与えたとされている。
[編集] 晩年の歌(辞世の歌)
- 西行は、以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦二月十六日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。行年七十三。
- 山家集:『ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ』
- 続古今和歌集:『ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比』
- 花の下を"した"と読むか"もと"と読むかは出典により異なる。なお、この場合の花とは[桜]のことである
- なお、国文学研究資料館 電子資料館において続古今和歌集の原典を実際に画像で閲覧できる。詳しくはそちらを参照。
[編集] 補足
- 高杉晋作は『西へ行く 人を慕うて 東行く 我が心をば 神や知るらむ』と歌い、東行と号した。ここでいう西へ行く人とは、他ならぬ西行を表している。西行は死後、西にあるとされる西方浄土にいくことを望んでいたからである。一方、西行に敬意を払う高杉自身は東にある、将軍のお膝元の江戸幕府討伐を目指した。
- 能の謡曲において、「西行桜」(世阿弥)などの作品中に西行が登場する。
- 落語にも「西行」という演目が見られる。
- 彼が結んだとされる西行庵は複数あるが、京都の皆如庵は明治二十六年(1893年)に、当時の庵主宮田小文法師と富岡鉄斎によって、再建されて現在も観光名所として利用されている。その他にも、吉野山山頂にある西行庵跡が有名である。