滝口武者
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滝口武者(たきぐちのむしゃ)は、9世紀末頃から内裏の警護にあたっていた武士。滝口の武士ともいう。
[編集] 歴史
9世紀、内裏の警護にあたっていたのは近衛府だったが、桓武天皇の子である平城天皇(上皇)と嵯峨天皇兄弟のお家騒動である薬子の変を契機に、新たに設置された蔵人所が、9世紀末、宇多天皇の寛平年中(889年 - 897年)から管轄するようになる。
その蔵人所の元で、天皇の在所・清涼殿の殿上の警護にあたっていた官位四位・五位の殿上人が滝口武者と呼ばれるようになる。清涼殿東庭北東の滝口(御溝水の落ち口)近くにある渡り廊に宿直していたことからこう呼ばれるようになった。
なお、蔵人所は律令制では定められていなかった役職(令外官)のため、滝口それ自体も官職ではなかったと思われる。
滝口の任命は、天皇即位のときに摂関家や公家らが家人(侍)の中から射芸に長じた者を推挙する。平将門も当時左大臣だった藤原忠平の家人として仕え、その推挙により滝口となっている。定員は当初の宇多天皇の頃で10名、白河天皇の頃には30名ほどだった。
[編集] 出典
- 『保元物語』
「山内首藤刑部丞俊通、その子滝口俊綱」や「草刈部十郎太夫定直、(蓮池)滝口家綱、同滝口太郎家次」などの記述が見られる。
この、かう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ、預りが曹司の方に去ぬなり。内裏を思しやりて、名対面は過ぎぬらむ、滝口の宿直奏し、今こそ」と、推し量りたまふは、まだ、いたう更けぬにこそは。