南海鉄道電3形電車 (軌道)
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南海鉄道電3形電車(なんかいてつどうでん-がたでんしゃ)は、阪堺電気軌道の前身である南海鉄道が過去に保有していた軌道線向け電車である。
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[編集] 概要
1924年に梅鉢鉄工所と日本車両で合計20輌が製造された。1930年の形式称号改正後はモ101形となった。
[編集] 車体
車体は高剛性の鋼製台枠と鉄材による骨組に木材による内外装を組み合わせた鉄骨木造構造で、屋根の側面に明かり取り窓と水雷型ベンチレータが並べられた深いレイルロード・ルーフを備え、中央部に大きな両開き扉が開口する窓配置D(1)4(1)D(1)4(1)D(D:客用扉、(1):戸袋窓)の堂々たる14m級大型車体であった。
この窓配置は1923年より量産が開始された近隣の大阪市電1001形(旧1081形)の影響を強く受けたデザインであるが、強いカーブを描き、3枚の前面窓の内、中央窓だけが上に拡大された前面形状など、全般的にはそちらよりもむしろ当時のアメリカのインターアーバンの影響が色濃い個性的な造形であり、実際にも高速運転される機会が多くインターアーバン的性格の強い阪堺線での使用に備え、台枠などの強度設計や出力等の点では1001形を遙かに上回っており、本形式は最終期まで台枠垂下などの問題をほとんど経験せず、また入念かつ良好な整備もあって最後まで美しい姿を保ったままであった。
塗装は新造以来廃車までダークグリーンに扉と窓枠をニス塗りで仕上げた当時の南海標準色で終始した。
車内照明は白熱電球によるシャンデリアが用いられ、戦後に笠が付けられたという。
[編集] 主要機器
[編集] 台車
大阪市が1001形に導入して好評を博していたのと同系の低床式軸バネ式台車である米国J.G.ブリル製Brill 77E1が採用された。
この台車は一体鍛造による側枠に、ブリル社の特許によるグラジエート・スプリングと呼ばれる板バネとコイルバネを巧妙に組み合わせた枕バネ機構を備え、揺れ枕釣りとしてツインリンク式と称するリンク機構を採用、更に蛇行動を抑止するボルスター・ガイド(トラニオン・タイロッド)と称する現在のボルスタアンカに相当する機構も内蔵するなど、当時の先端技術を導入した最新型であり、その後日本ではこの台車を簡略化した模倣品(前述の各種特徴はブリルの特許への抵触を回避するため、省略された)が事実上の路面電車用標準台車となったほどの傑作であった。
[編集] 電装品
主電動機には米ゼネラル・エレクトリック製GE-247-I(端子電圧600V時定格出力30kW)が新造され、主制御器は当時の南海鉄道南海線で使用されていた電1形の付随車化(電付2~4形に改造)や総括制御化に伴う機器換装で発生した余剰品である、4個モーター制御が可能な大型の米ウェスティングハウス製WH-403D直接制御器が転用された。
主電動機は各台車に2基、合計4基搭載されており、当時の路面電車としては最大級の高出力車となった。
なお、このGE-247-Iをはじめとするゼネラル・エレクトリック製電動機は非常に高品質であったと伝えられており、同級の芝浦によるスケッチ生産品であるSE-104が戦中戦後の酷使で絶縁性能が低下しコイル巻き直しの必要が生じた際にも、同様に酷使されていたにもかかわらず、新造時のままの状態を保っていて摩耗部品の交換のみで使用が可能であったといい、これはその後本形式の電動機が他形式に転用され、70年以上の長期に渡ってほぼそのままの状態で使用され続ける一因となった。
新造時は帰還線にも架線を用いるダブルポール集電であったが後にシングル化され、更にこれは戦後架線がカテナリ吊架に変更された際に自社大和川検車区でポールの先端をY字状にして鉄道線用パンタグラフから転用したスライダーシューを取り付けた、通称Yゲルに変更された。このYゲルはビューゲルやパンタグラフの購入費用の節約を目的として検車区員が考案したものであるが、ビューゲルと異なり方向転換不能で前後方向に各1基搭載せねばならないものの、ポールの主要部品を流用することもあってその製作コストは非常に低廉であったと伝えられている。
[編集] ブレーキ
ブレーキはSM-3直通ブレーキを搭載しており、ブレーキシリンダーは車体装架で、そのブレーキワークを構成するリンク機構の一部は台車外部に露出しており、本形式の台車の特徴となっていた。
[編集] 運用
阪堺線の主力車として重用され、後継であるモ151形以降の就役後もそれらに伍して運用され続けた。
戦災で3両が被災し、戦後、車番を詰めて101~117に整理され、モ501形の就役でまず111・112・114・115の4両が1960年9月に代替廃車となった。
その後、安全性向上と不燃化を求める運輸省の指導で1962年9月に103・107・116の3両が廃車となり、GE-247-Iなどの一部機器がモ351形2両に流用され、1964年9月にも104・106・110の3両について前年のモ351形353~355の新造に伴う代替廃車が実施された。
更に、1966年には本形式の台車と主電動機を大阪市電から譲り受けた大阪市交通局1601形電車の車体と組み合わせてモ121形とする工事(大阪市からは1601形を台車(1801形用Brill 77E相当品)・主電動機(同じく1801形用SS-50)付で譲受したが、それらはモ205形の低床化に利用された)が開始され、同年12月の101・102を皮切りに、105・109(1967年3月)、108・113(1967年4月)、と順次廃車が進められ、最後に残されたラストナンバーである117が1967年4月23日のさよなら運転をもって営業運転から外され、同年8月までは車籍が残されていたものの、結局保存されることもないまま同月15日をもって除籍、解体処分に付された。
このため、本形式は静態保存も含めて一切現存していない。