南進論
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南進論(なんしんろん)とは、日本が南方地域へ進出すべきであるという第二次世界大戦前の議論。「北守南進論」とも称される。
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[編集] 概要
古くは明治時代から提唱され台湾領有や第一次世界大戦後の南洋諸島の委任統治の際にも論じられた。特に日中戦争の頃に主唱された。
[編集] 明治・大正期の南進論
南進論は田口卯吉・志賀重昂・菅沼貞風などの民間の論客が提唱したもので、自由貿易主義の流れを汲むものとアジア主義の流れを汲むものに大別され、彼らはオセアニアや東南アジア島嶼部への貿易・移民事業を試みた。日清・日露戦争以降、日本の軍事戦略の基本は朝鮮・満州・中国大陸など東北アジアへの進出を図る北進論となったたため南進論は民間・非主流派の対外政策論にとどまった(日清戦後のフィリピン独立革命(1898年)の際、日本軍が独立派を支援することでこの地に勢力を扶植することが模索されたが、結局は断念された)。
1914年第一次世界大戦参加にともない、日本海軍がドイツ領ミクロネシア(南洋群島)を占領し、戦後この地が日本の委任統治領として事実上の植民地になると、南洋群島は「裏南洋」、すなわち「表南洋」(東南アジア島嶼部)への進出拠点と位置づけられ、一時的な南進ブームが高まった。しかしこの時期の南進論の主流は貿易・投資・移民を軸に平和的な経済進出を唱道するものであった。南進が場合によって武力を伴い実施すべき国策と考えられるようになったのは満州事変により日本の国際的な孤立が進む1930年代ごろのことである。
[編集] 日中戦争における南進論
実際に武力的南進が決定されたのは1940年になってからのことであり、この時日中戦争の泥沼に陥っていた日本は1940年4月から6月のドイツの電撃戦により東南アジアに植民地を持つオランダ・フランスがドイツに降伏し、イギリスも危機に瀕していたため、このことを利用して東南アジアを自己の勢力を組み込めば危機的状況から脱出できると考え、武力南進を決意したのである。
この武力南進は周到に準備された国策というよりは泥縄式に決められた政策であった。7月27日の大本営・政府連絡会議で、場合によれば武力を行使しても東南アジアに進出することが決められた。[1]
日本の武力南進の最初はフランス領インドシナで、当時のインドシナは中国国民政府(蒋介石政権)に対する支援ルートになっており、日本は1940年9月にそこに駐留した(北部仏印進駐)。
南進論を実行した結果、アメリカ合衆国によって石油の全面禁輸に踏み切られ、最終的には敗戦する原因となった。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 油井大三郎・古井元夫著、 『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』 中央公論社 1998年 pp.136-137
[編集] 参考文献
- 志賀重昂 『南洋時事』
- 菅沼貞風 『大日本商業史』 岩波書店 1940年
- 竹越与三郎 『南国記』 1910年
- 矢野暢 『「南進」の系譜』 中公新書
- 同 『日本の南洋史観』 同上
- 油井大三郎・古田元夫 『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』 中央公論社 1998年 ISBN 4-12-403428-8
カテゴリ: 日本の国際関係史 | 日本の貿易の歴史 | アジア地域研究 (歴史) | 太平洋戦争