満州事変
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満州事変(満洲事変、まんしゅうじへん)は、満州(現中国東北部)における関東軍(大日本帝国陸軍)の1931年9月18日に始まる軍事行動に端を発する国家間紛争である。関東軍はわずか五ヶ月の間に満州全土を占領し、軍事的には希に見る成功を収めた。中国側の呼称は「九一八事変」。
これを境に中国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化した。日本軍部は発言力を強め、日中戦争(支那事変)への軌道が確定、中国市場に関心を持つアメリカら列強との対立も深刻化した。これをもって、いわゆる十五年戦争の始まりとする説があるが、満州事変自体は(1931年 - )は塘沽協定(1933年)で終了しており、日中戦争と連続してはいない [1]。
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[編集] 満州事変までの経緯
[編集] 張作霖爆殺事件
1905年、大日本帝国は日露戦争で勝利し、旅順、大連の租借権と長春 - 旅順間の鉄道及び支線や付属設備の権利・財産を清国政府の承諾を以って日本政府に移転譲渡する日露講和条約が締結された。これをもって南満州鉄道(満鉄)を創立し、その警備を関東軍が当たることになる。当初、地元の親日派軍閥長である張作霖に軍事顧問団を送り込んでいたが、張作霖の勢力が弱まり始めると、1928年に、関東軍は張作霖が乗る列車を爆破殺害した(張作霖爆殺事件)。
[編集] 張学良の反目
張作霖爆殺事件によって日本は国際的な批判を招く事となる。張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本に敵対的な行動を取るようになり、蒋介石の南京国民政府への合流を決行(易幟)。南満州鉄道のすぐ横に新しい鉄道路線などを建設し、安価な輸送単価で南満州鉄道と経営競争をしかけた。これに危機感を感じた関東軍は再三に渡り恫喝するが聞き入れられず、石原莞爾(いしわら かんじ)、板垣征四郎の指導のもと、満州の軍事占領を決意する。
[編集] 事変の経過
[編集] 柳条湖事件
柳条湖事件は、満州事変の発端となった事件である。 [2]
1931年9月18日の夜22時すぎ、奉天(現在の中国遼寧省瀋陽 (Shenyang))北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊される事件があった。駐留していた関東軍はこれを中国側の張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中国東北地方の占領行動に移った。 柳条湖近くには中国軍の兵営「北大営」があり、関東軍は爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺、その後北大営を占拠。翌日までに奉天、長春、営口の各都市も占領した。
柳条湖事件は実際には、爆破は関東軍の虎石台(こせきだい)独立守備隊の一小隊が行ったものであり、つまり関東軍の自作自演であった。この爆破事件のあと、南満州鉄道の工員が修理のために現場に入ろうとしたが、関東軍兵士によって立ち入りを断られた。また、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過したことからも、この爆発がとても小規模だったことが伺える。[3]
中国では「9・18事変」(九・一八事変)と呼ばれる。日中戦争に関しても、抗日運動の始まりという観点からこの柳条湖事件を発端とする考え方がある。 [4]
[編集] 関東軍の独断
日本政府は事件の翌日に緊急閣議を開いた。南次郎陸軍大臣はこれを関東軍の自衛行為と強調したが、幣原喜重郎外務大臣(男爵)は関東軍の謀略なのではと疑惑を表明、外交活動による解決を図ろうとした。そして9月24日、閣議では「事態をこれ以上拡大しない方針」が決定した。ところが、関東軍参謀は軍司令官本庄繁を押し切り、政府の決定を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大。独断越境した朝鮮軍の増援を得て管轄外の北部満州に進出、翌1932年2月のハルビン占領によって東北三省を制圧した。[5]
[編集] 錦州爆撃
1931年10月8日、奉天を放棄した張学良が拠点を移していた錦州を石原の作戦指導のもと、関東軍の爆撃機12機が空襲した。南次郎陸軍大臣は若槻礼次郎首相に「中国軍の対空砲火を受けたため、止むを得ず取った自衛行為」と報告したが、関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を集結させており、放置すれば日本の権益が侵害される恐れが強い。満蒙問題を速やかに解決するため、錦州政権を駆逐する必要がある」と公式発表した。これによって幣原の国際協調主義外交は決定的ダメージを受けることとなった。
[編集] 溥儀擁立
国際世論の批判を避けるため、あるいは陸軍中央からの支持を得るため関東軍は事変4日目にして満州全土の武力占領ではなく傀儡政権の樹立へと方針を早々に転換した。 特務機関長であった土肥原賢二大佐が満州民族である清朝の廃帝(宣統帝)愛新覚羅溥儀の説得にかかった。清朝復興を条件に同意した溥儀は11月10日、天津の自宅を出て11月13日に営口に到着、旅順の日本軍の元にとどまった。
一方で関東軍は煕洽、張景恵ら中国側の受け皿となる勢力へに働きかけ、各地で独立政権を作らせた上、これら諸政権の自発的統合という体裁をもって新国家の樹立を図った。
[編集] スティムソン・ドクトリン
アメリカの国務長官スティムソンは、1932年1月7日に、日本の満州侵略による中国の領土・行政の侵害と、パリ不戦条約に違反する一切の取り決めを認めないという、いわゆるスティムソン・ドクトリンを発表し、日本と中国に向けて通告した。中国はもちろん、イギリスなどヨーロッパ諸国も消極的ながら賛成したが、日本は認識不足だとして拒絶した。
[編集] 上海市街戦
1932年1月以降、国際社会の目を満州からそらせるために、国際都市上海で日中両軍を戦わせた。詳しくは上海事変を参照。
[編集] リットン調査団
1932年3月、中華民国政府の提訴により国際連盟からヴィクター・リットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。翌1933年の2月24日、勧告案が含まれた報告書が国際連盟特別総会において賛成多数で可決され、これを不服とする日本は3月に国際連盟から脱退した。詳しくはリットン調査団を参照。
[編集] 満州国の建国
満州国についての詳細は満州国を参照。
1932年3月1日、満洲国の建国が宣言された。国家元首にあたる執政には清朝の廃帝溥儀、国務総理に鄭孝胥、首都は新京(現在の長春)、元号は大同とされた。これらの発表は東北行政委員会委員長張景恵の公館において行われた。3月9日には、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。
犬養毅内閣は3月12日、「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次、国家としての実質が備わるよう誘導する」と閣議決定。日本政府は関東軍の独断行動に引きずられる結果となった。同年五・一五事件が起こり、政府の満州国承認に慎重であった犬養は暗殺される。
1932年6月14日、衆議院本会議にて満州国承認決議案が全会一致で可決。9月15日には大日本帝国(斎藤実内閣)と満州国の間で日満議定書が締結され、日本の既得権益の承認と、関東軍の駐留が認められた。
[編集] 脚注
- ^ 満州事変は、第二次世界大戦前のナチ独裁のきっかけとなった1933年2月27日のドイツ帝国議会議事堂(ライヒスターク (Reichstag) 、現・ドイツ連邦議会議事堂)炎上事件(ドイツ国会議事堂放火事件)と比較されることがある。
- ^ 日本では長く「柳条溝事件」と称されていたが、これは当時伝えられる際の誤りだったと1980年代になって判った。現場の地名は「柳条湖」である。
- ^ 戦後、現代史家の秦郁彦(元日本大学法学部教授)が花谷中将など関係者のヒアリングを実施し、柳条湖事件の全容を明らかにしたものである。花谷中将の証言は秦が整理し、後に花谷正の名で月刊誌『知性別冊 秘められた昭和史』(河出書房)で発表し大反響が出た。後に、秦が事件に係わった他の軍人の聴取内容からも花谷証言の正確性は確認されている。(詳細は秦郁彦『昭和史の謎を追う』上(文春文庫)参考。)
- ^ 現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。
- ^ 朝鮮軍司令官・林銑十郎の行動を昭和天皇は嘉し(実際には軍隊の移動は天皇の専権事項であり、越権は死刑もあり得る重罪である)、西園寺公望の処罰進言を退けたばかりか、後に総理大臣に任命する。
[編集] 関連項目
- 清、辛亥革命(1911年)、中華民国(1912年~)
- 対華21ヶ条要求(1915年)
- 五・四運動(1919年)、五・三〇運動(1925年)
- 孫文、中国国民党、蒋介石、国民政府(1927年~)、北伐(1926年~1928年)
- 中国共産党、毛沢東
- 張作霖、張学良、奉天軍閥、張氏帥府
- 張作霖爆殺事件 1928年6月4日
- 本庄繁(事変時、関東軍司令官)
- 片倉衷 (事変時、関東軍参謀)
- 十月事件
- 日中戦争 : 1937年 盧溝橋事件(蘆溝橋事件)
- 太平洋戦争
- 十五年戦争
- 九・一八歴史博物館
- 戦史叢書
- en:Japanese strategic planning for mainland Asia (1905-1940)