吐谷渾
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吐谷渾(とよくこん, Tuguhun)は五胡十六国時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。4世紀から8世紀まで青海一帯を支配して栄えたが、チベットの吐蕃王朝に滅ぼされた。
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[編集] 建国
遼西の徒河流域(現在の遼寧省錦州西北)にいた東部鮮卑慕容部酋長、渉帰にはふたりの息子があった。 庶長子の吐谷渾と正嫡男の慕容廆である。 285年、渉帰が死去して嫡男の慕容廆が即位すると、ふたりの支持集団が対立しあっため、吐谷渾は自らの部衆を率いて陰山(現・内モンゴル自治区)に出奔し、 さらに313年頃青海地方に南下して現地のチベット・ビルマ語系民族である羌人を支配下に収めた。 一方、慕容廆は遼西で前燕を建国している。青海の鮮卑部族は始祖の名を取って吐谷渾を国名とし、王は可汗(時に大単于)を名乗った。なお、鮮卑は東胡に出自するアルタイ語族モンゴル語系遊牧部族である。
[編集] 六朝との関係
吐谷渾は南北朝時代の中国王朝にしばしば朝貢し、中国文化を摂取した。とくに436年には北魏から鎮西大将軍、 438年には南朝宋から都督西秦河沙三州諸軍事、鎮西大将軍、西河二州刺史、隴西王を授けられ、翌年には河南王に改封された。 444年吐谷渾内部で権力闘争があり、北魏軍の侵攻を受けたため、吐谷渾王慕利延は于闐(現・新疆ウイグル自治区ホータン)に逃れて、 于闐王を殺し、その地を占拠した。その後、慕利延は故土に戻り、南朝宋との関係を深め、北魏としばしば交戦した。この頃、吐谷渾は西域南道諸国も支配し、シルクロードの国際貿易を統制していた。
[編集] 隋唐との関係
581年、文帝 (隋)はシルクロードの交易を確保するため、歩騎数万を送って吐谷渾を攻撃し、大敗した吐谷渾王は遠く逃れたため、隋は吐谷渾に傀儡政権を樹立した。 煬帝 (隋)もしばしば吐谷渾に遠征軍を送り、この地域に西海郡、河源郡などを設置した。しかし、隋末の大乱により、吐谷渾が奪回している。 太宗 (唐)も635年に李靖を大総管とする大軍を吐谷渾に遠征させたため、 吐谷渾は東西に分裂、西部は鄯善(現・新疆ウイグル自治区)を中心に吐蕃に降り、東部はなお青海にあって唐の属国となった。唐はしばしば吐谷渾王に公主を降嫁させて懐柔を図り、唐との関係は友好的なものがあった。
[編集] 滅亡
663年吐谷渾は突如チベットを支配する吐蕃王朝の攻撃を受け、壊滅した。 多くの部衆は唐に逃れ、青海に残った者は吐蕃の支配下に置かれた。 高宗 (唐)は吐谷渾を復国させるため、670年薜仁貴将軍に5万の大軍を授けて青海に出撃させたが、大非川の戦いで吐蕃軍に包囲され大敗した。 これ以降、青海地方はチベットの領域に組み込まれ、唐に亡命した吐谷渾部衆は霊州で保護されたが、8世紀中葉、吐蕃軍はさらに唐の領内にも攻め込み、霊州もまた吐蕃軍の陥れるところとなった。一部の吐谷渾部衆はさらに各地に逃れ、その勢力は見る影もなく衰退する。 吐谷渾の名は遼代ころまで中国史料に見えるが、その後は漢民族に吸収された。
[編集] 社会経済
吐谷渾は遊牧を主として生活し、馬、牛、駱駝などを盛産した。その良馬は青海駿と呼ばれ、日に千里を行く竜種として有名であった。 青海の地は寒冷で農業はあまり発展しなかったが、銅や鉄を産し、鉱山や冶金が発展した。 吐谷渾の領土は現在の新疆南部に及び、そのキャラバン隊はシルクロードを通り中央アジアやペルシャにまで進出、その物産を益州や長安にもたらした。
宗教はもともとシャマニズムであったが、後には仏教を信仰し、514年には益州に九層の仏寺を寄進している。 文字はなく、上流階層は漢字を使用した。吐谷渾の婦人は金花で頭部を飾り、とくに可汗の夫人は華麗な金花冠を頭に載せていた。これは遼西の慕容部に共通する風俗である。
[編集] 外部リンク
- 吐谷渾(中国語)
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