青海省
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青海省 | |
略称: 青 (ピン音: Qīng) | |
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省都 | 西寧市 |
最大都市 | |
省委書記 | 趙楽際 |
省長 | 宋秀岩 |
面積 | 721,000 km² (4位) |
人口 (2004年) - 人口密度 |
5,390,000 (30位) 7.48/km² (30位) |
域内総生産 (2004年) - 一人あたり |
465.7億元 (29位) 8640元 (19位) |
人間開発指数 (2005年) | 0.684 (中) (27位) |
主な民族 | 漢民族 - 54% チベット族 - 23% 回族 - 16% 土族 - 4% サラ族 - 1.8% モンゴル族 - 1.8% |
地級行政区 | 8 |
県級行政区 | 43 |
郷級行政区 | 429 |
ISO 3166-2:CN | 63 |
公式サイト http://www.qhinfo.com/head/ |
青海省(せいかいしょう、チンハイ・シェン、ピン音: Qīnghǎi shěng、チベット語: ツォゴン・シンチェン、拡張ワイリー方式: mtsho sngong zhing chen)は、中華人民共和国の西部に位置する省級行政区のひとつ。省都は西寧(チベット名はシリン)。1928年に青海省成立。省名は、省内に国内最大の湖沼である青海湖(チベット名ツォティショギャルモ、モンゴル名フフノール)があることにちなむ。
目次 |
[編集] 概要
この省の領域の大部分は、チベット人自身によるチベットの地方区分でいう「アムド地方」に属し、アムド地方の西部から中央部を占めており、東南部に位置するキクド(ジェクンド、玉樹)一帯のみ、カム地方に属する。またモンゴル人は、この地やそのモンゴル系住人を「デート・モンゴル(高地モンゴル)」と称する。2005年1月省長に就任した宋秀岩は中国で20年ぶりの女性省長である。
この省の領域を枠組みとする地方行政単位の成立は、雍正帝のチベット分割にさかのぼる。清朝の雍正帝は、1723年から1724年にかけて、当時この地方を支配していたオイラト系モンゴル人のグシ・ハン一族を征服、彼らの支配下にあった七十九族と呼ばれる諸部族を、タンラ山脈を境に南北に分割、青海四十族と西蔵の三十九族に二分した。清朝は青海モンゴルや四十族などの諸侯を、西寧から支配、この枠組みは中華民国にも引き継がれ、青海省の基礎となった。中国の現行の行政区画としての西蔵と青海は、直接にはこの分割を起源としたものといえる。
[編集] 歴史
古代の西戎の地で、漢代には姜族が占拠し、西羌(せいきょう)と呼ばれた。隋王朝は西海、河源などの郡を設置したが、吐谷渾(とよくこん)が勃興し、領域とした。七世紀には、吐蕃王朝(とばんおうちょう)のチベットと唐王朝の中国の抗争の舞台となり、八世紀に大部分がチベット領となった。822年、チベットと中国の間で和平と国境を定めるための条約が締結され、青海湖の西南にある日月山が両国の国境と定められた。条約の文面はチベット語と中国語(漢文)の二カ国語で石碑にきざまれ、チベットの都ラサ、中国の都長安、日月山の三カ所に設置された。ラサに設置された石碑のみ、現在まで失われずに残り、「唐蕃会盟碑」として知られている。吐蕃王朝の統治下で、この地に居住する諸種族の多くがチベット人としての自意識を持つようになって現在に至っている。
宋代(北宋・南宋)には吐蕃王朝の末裔が樹立した青唐王国の拠点となったが、タングート系の西夏に併合されて滅亡した。17世紀なかば、西モンゴルオイラト部のグシ・ハンが配下を引き連れてチベットの各地に移住し、チベットを征服した際には、この地が本拠地となった。現在この省の中央部から北西部にかけて居住している青海モンゴル族は、この時移住してきたグシ・ハンの配下の末裔である。十八世紀、清朝の雍正帝はグシ・ハン一族の内紛に乗じて青海地方に侵攻(いわゆる「ロブサンダンジンの乱」)、グシ・ハンの子孫たちを屈服させ、一族がチベット各地に保有していた権限、権益をすべて接収、青海モンゴル族は盟旗制により再編、チベット人諸侯たちには各級の「土司職の称号を与え、所領を安堵する、という支配体制を築いた。清末以来、ムスリム(イスラム教徒)の馬氏政権の支配下におかれ、1928年、河西回廊の南部と会わせて「青海省」が設置されたのちも、遊牧地域では、従前とさほど変化のない社会構造が継続した。1950年代なかば、中国人民政府による民主改革が行われたのを契機に大規模な抗中蜂起が勃発、チベット動乱の引き金となった。
[編集] 地理
青蔵高原東北部に位置し、黄河、長江、メコン河の水源地帯となっている。省東北部に中国最大の内陸塩水湖・青海湖がある。西北部には乾燥したツァイダム盆地が広がる。大陸性高原気候で一日の温度差が激しく、降水量は少ない。北部から東部にかけて甘粛省、南東部は四川省、南部から西部にかけてチベット自治区、西北部は新疆ウイグル自治区と接する。
[編集] 行政区画
1724年、雍正のチベット分割の際に清朝がグシ・ハン一族より接収したチベット東部の最北部に「青海」地方が設けられた。その領域は西寧辧事大臣管轄下の青海蒙古四十旗と、チベット系、モンゴル系の諸侯40家からなる青海四十族の所領を合わせた範囲で、青海蒙古四十旗は盟旗制、青海四十族は土司制によって管理された。
世襲の領主に所領を安堵する盟旗制、土司制度は、辛亥革命によって成立した中華民国、また1928年にこの地に省制度を敷いた南京国民政府のもとでも、引き続き維持され、廃止されたのは中国人民政府によってである。
人民政府による行政区画は時期ごとに変遷を見た後、1999年現在、6自治州、1地区、1市を管轄している。
- 西寧市(城東区、城中区、城西区、城北区、大通回族土族自治県)
- 海東地区行政公署(平安県、楽都県、湟中県、湟源県、互助土族自治県、民和回族土族自治県、化隆回族自治県、循化サラ族自治県)
- 海北蔵族自治州(祁連県、剛察県、海晏県、門源回族自治県)
- 海南蔵族自治州(共和県、貴徳県、同徳県、貴南県、興海県、竜羊峡行政委員会)
- 黄南蔵族自治州(同仁県、尖扎県、沢庫県、河南モンゴル族自治県、李家峡行政委員会)
- ゴロク蔵族自治州(瑪沁県、甘徳県、久治県、達日県、班瑪県、瑪多県)
- 玉樹蔵族自治州(玉樹県、囊謙県、称多県、治多県、雑多県、曲麻莱県)
- 海西モンゴル族蔵族自治州(ゴルムド市、デリンハ市、鳥蘭県、都蘭県、天峻県、茫崖行政委員会、冷湖行政委員会、大柴旦行政委員会)
[編集] 民族とその分布
民族分布の特徴としては、農耕の適地や各種工業の盛んな東北部の一部地区において顕著な多様性が見られる一方、人口の希薄な、残る大部分の地域においては、遊牧を生業とするチベット人とモンゴル人の天地である。その為、青海は中国の5大牧畜地区のひとつに数えられている。
西寧市と付属の諸県、海東地区にかけての東北部は、古来より諸民族が居住・往来し、興亡した河西回廊の一部分で、漢族、回族をはじめとする様々な民族が分布している。省面積の七割近くを占める、省の中央部、北部、西部、南部は、かつての「青海蒙古三十旗」の遊牧地、あるいは青海四十族の居住地域で、これらの地域の大部分では住民のほとんどが、青海蒙古三十旗や青海四十族の末裔である。ただし中華人民共和国成立後、中央部に鉱山都市ガルムー(格爾木)が開かれたことで、民族の分布比は大きく変化しつつある。
遊牧地域に居住する民族は主として以下の二種類である。
- チベット族 吐谷渾や吐蕃王朝期に派遣されてきた駐屯軍の末裔。モンゴル人の末裔の一部とともにチベット族として「民族識別」され、人口106.4万人で全省人口の20.9%を占める。主として玉樹、果洛、海南、黄南、海北の藏族自治州及び海西蒙古族藏族自治州に分布し、西寧市や、同市所轄の大通県、海東地区などにも住居する。チベット語のアムド方言を話す。タングートとも呼ばれる。
- モンゴル族 青海省内でモンゴル族として「民族識別」されたのは、大部分が、十七世紀にグシ・ハンに率いられてこの地に移住してきた青海蒙古の末裔である。人口は8.5万人。その他青海四十族とまとめ称され、現在チベット族として識別されている部族の一部には、モンゴル帝国期、もしくはダヤン・ハーンの時期にこの地に移住してきたモンゴル系集団がふくまれている。
この省の東北部に居住する諸民族のうち、主なものは以下のとおり。
- 漢族 省都西寧市とガルム市に集中する。青海省最大の民族集団である。
- 回族 人口74万人で全省人口の14.52%を占める。化隆、門源回族自治県と民和、大通回族土族自治県、西寧市、湟中県、祁連県などに分布する。都市部の回族は商業を得意とし、牛羊肉の販売や皮毛加工、飲食業に従事する。青海における回族先民の活動は唐、宋時期まで遡るが、大量の回回人が青海に移住してきたのは元代である。回族は漢語を話すが、一部地区ではチベット語を話す者もいる。
- 土族 人口19万人。
- サラ族(撒拉族) 人口9万人。
[編集] 経済
2004年の全省生産総額は対前年比17.2%増の455億人民元であった。もともと毛沢東時代に対ソ連戦争に備えて、軍事工業が内陸の青海に配置されていたが、2000年以来、国務院の西部大開発計画によって工業化が進展している。しかし、少数民族の農牧民の収入は依然として低い水準にある。2006年7月1日、ゴルムドとラサを結ぶ青蔵鉄道が開通した。
[編集] 外部リンク
- 省政府公式サイト(中国語)
- 新華社青海関連サイト(中国語)