向井正綱
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向井 正綱(むかい まさつな、弘治3年(1557年) - 寛永2年3月26日(1625年5月2日))は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての戦国武将。名は「政綱」とも。兵庫助。伊勢国の海賊で後に今川義元、武田信玄に水軍の将として仕えた向井正重の子。子に向井忠勝、向井正通ら。なお「向井」と名乗ったのは正綱からで、それ以前は「向」であった。
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[編集] 出自
向井(向)氏は伊賀国向庄の出であるとか、志摩国英虞郡向の出であるなど諸説ありはっきりしない。はじめ伊勢国国司北畠氏の海賊衆としてその名が見える。後に父正重のころに「今川氏家臣の朝比奈泰能の招きに応じて、駿河国に入り水軍の将となった」説と、「今川氏没落後に、駿河国に侵攻した武田信玄が水軍の必要性を感じて家臣の土屋貞綱に命じて招いた」説がある。いずれにしても、向井氏は元亀年間には駿河国持船城主として、武田水軍の一翼を担っていた。
[編集] 略歴
天正7年(1579年)徳川家康の駿河侵攻により牧野康成らに攻められ、父正重、義兄政勝が討死。生き延びた正綱が跡を継ぎ、後北条氏らとの駿河湾での攻防に活躍するが、天正10年(1582年)に武田征伐により武田氏が滅亡すると、水軍を欲しがっていた徳川家康の命をうけた本多重次の誘いを受けて、他の武田水軍衆であった小浜氏、千賀氏、間宮氏らと共に召抱えられた。
はじめ本多重次の配下としてわずか二百俵の扶持ながらも伊豆国攻め、小牧・長久手の戦いなどに従軍。北条水軍の梶原景宗や、織田水軍の九鬼嘉隆ら名だたる水軍の将を破るなど、目覚しい活躍をし徳川水軍の中心となっていった。小田原の役においても相模湾での包囲を担当。既にこの頃には家康の乗る船を預かる御船手奉行に任じられており、江戸へと移封後も従って、相模国、上総国で二千石を得て、相模国三崎に入る。関ヶ原の戦いでは海路が荒れて遅参するものの、その地位は変わらず江戸湾の警護・発展に貢献した。
[編集] 長谷川氏との繋がり
大和国の国人であった長谷川氏と深い繋がりがある。姉婿で、父正重の養子となった義兄向井政勝(正行とも)は長谷川長久の子で、正綱の正室も同じく長久の娘である。さらに同じく長久の子である長谷川長綱は正綱と共に徳川家康に仕え、海運に長じて関東代官頭にまで栄達した。互いに三浦半島を与えられてそれぞれ江戸湾の警護と海運を担当。さらには正綱の嫡子忠勝の正室には長綱の娘が入るなど、深い関係を築き、それぞれよく補佐したと伝わる。
[編集] 関連項目
[編集] 小説
- 隆慶一郎:「見知らぬ海へ」(講談社文庫(書籍情報:ISBN 4-06-185774-6))