向井忠勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
向井 忠勝(むかい ただかつ、天正10年5月15日(1582年6月5日) - 寛永18年10月14日(1641年11月16日))は江戸時代前期の戦国武将、旗本。左近衛将監。徳川水軍の将で御船手奉行であった向井正綱の子。妻は長谷川長綱の娘。後妻と合わせて十一男七女に恵まれた。
目次 |
[編集] 略歴
慶長年間には既に徳川秀忠の元で、父正綱とは別に相模・上総国内に500石を拝領し、御召舟奉行として下総国葛飾郡堀江(現在の千葉県浦安市)に陣屋を置いた事が記録されている。大坂冬の陣では九鬼守隆らと水軍の将として出陣。野田・福島の戦いでは大野治胤らの豊臣水軍を散々に蹴散らし、その後も大坂湾の制海権を押さえる活躍を見せた。
その功により元和3年(1617年)には3000石を、父の死後はその遺領も継ぎ、5000石に、寛永2年(1625年)には相模、上総の両国で実に6000石と、旗本としては異例の大身に封ぜられた。将軍秀忠の信頼篤く、舟を使っての移動の際には必ず忠勝を随行させたと伝わるほどである。
嫡子五郎左衛門正俊は父と同じく御船手となっていたが、理由は不明だが改易され、忠勝の跡は後妻との子である五男向井正方(忠継とも)が継いだ。忠勝以降、向井家は九代に渡って左近衛将監と舟手奉行を世襲し、「向井将監」として江戸湾の警護や幕府水軍の維持に努めた。
[編集] 造船の名手
幕府の史上最大の安宅船である「御座船安宅丸」の製造を指揮したり、伊達政宗が支倉常長をローマに派遣した際の南蛮船「サン・フアン・バウティスタ号」の製造の際には、ウィリアム・アダムスと供に石巻まで出向いた。
[編集] 地名に残る将監
忠勝は本来の采地である相模国三浦郡三崎宝蔵山の屋敷とは別に、寛永7年(1630年)に江戸の八丁堀霊岸島に 江戸屋敷を拝領している。「将監番所」と呼ばれ、亀島川沿いの河岸は「将監河岸」なる地名で明治時代末期まで正式な地名となっていた。
他にも江戸日本橋界隈には「将監」と名のつく橋や河岸が多くあった。幕府の御座船のほとんどを預かり、御船蔵の管理を任されていたことから、それらがことごとく「将監」と呼ばれていたことが伝わってくる。
また、江東区や江戸川区などにも海べりや川筋に「将監」という地名が散見され、何らかの関わりがあったのではないかという説も多い。
[編集] 関連項目
[編集] 小説
- 隆慶一郎:「見知らぬ海へ」(講談社文庫(書籍情報:ISBN 4-06-185774-6))