喜多見藩
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喜多見藩(きたみはん)は、武蔵国(現在の東京都世田谷区喜多見)に存在した藩。ちなみに現在の東京23区に該当する地域内に藩庁(陣屋)が設置されていた唯一の藩である。
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[編集] 概要と藩史
戦国時代、江戸氏の庶流の一族・喜多見氏は古河公方、次いで後北条氏の家臣となっていた。天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、喜多見勝忠は徳川氏の家臣となり、姓を喜多見に改めた。勝忠は関ヶ原の戦い、大坂の陣に従軍した功績から元和元年(1615年)に近江国郡代となる。その後も摂津・和泉・河内の3ヶ国奉行を務め、後陽成天皇の葬礼を務めるなどの功績を挙げたことから、2000石にまで加増された。寛永4年(1627年)12月26日、勝忠は堺で病死した。享年60だった。死後、家督は次男の喜多見重恒が継いだ。このとき、2000石の所領は1000石を重恒、残る1000石を喜多見重勝が継いだ。重恒は延宝7年(1679年)6月21日に死去し、後を外孫の喜多見重政が継いだ。重政は徳川綱吉の御側小姓にまで出世して2000石、後には6800石余を加増され、合計1万石の所領を領することとなり、諸侯に列した。さらに側用人にまでなっている。貞享3年(1686年)、河内・武蔵国内においてさらに1万石を加増されて合計2万石の大名となり、武蔵喜多見に陣屋を置いて、喜多見藩を立藩した。
しかし元禄2年(1689年)2月、喜多見氏の分家筋であった喜多見重治が刃傷事件を起こしたため、連座により改易された重政は、松平定重預かりとなる。そして元禄6年(1693年)7月28日、重政は狂死して果てたのであった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 喜多見(きたみ)家
1万石→2万石。譜代。
- 喜多見重政(しげまさ)