増島六一郎
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増島 六一郎(ますじま ろくいちろう、1857年(安政4年) - 1948年)は、彦根生まれの弁護士。父が61歳のときの子供であったため六一郎と命名された。
[編集] 略歴
彦根藩井伊家弓術師範230石の家柄。1872年(明治3年)に上京し、官立東京開成学校(のちの東京大学)に進学する。東京大学法学部第二期を首席で卒業。その後、イギリス・ミドルテムプル法学院に、穂積陳重や岡村輝彦らとともに留学し、バリスター(法廷弁護士兼判事候補者)の資格を取得する。
東京神田錦町二丁目にあった明治義塾の教壇に立つが、同校が廃校の折、同地を購入して新たに英吉利法律学校(のちの中央大学)と東京英語学校(のちの日本中学)の設立に奔走する。英吉利法律学校の18名の創立者の中心人物として同校校長に就任した。また、同地に杉浦重剛とともに創立した「東京英語学校」でも初代校長を務める。その後、学校教育の一線からは退き、弁護士業に復帰した。
[編集] その他
- 留学したミドルテムプル法学院には大きな肖像画が掲げられている。
- 毛利家上屋敷を自邸として購入し、その跡地は現在六本木ヒルズの毛利庭園となっている。
- 中央大学市ヶ谷キャンパスには、彼と菊池武夫の胸像が飾られている。