多賀城
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多賀城(たがじょう、たがのき)は、日本の律令時代に、陸奥国の国府(宮城県多賀城市)に設置された古代城柵である。国指定特別史跡。
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[編集] 概要
奈良の畿内政権が、東日本(関東地方、東北地方)に存在していた「蝦夷」と呼ばれ異民族視された東国住人を制圧する為、軍事的拠点として設置された。創建は724年(神亀1年)大野東人が築城したとされる説ほか。国府と鎮守府が置かれ、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵などが置かれ、城柵で囲み櫓で周囲を監視していたと考えられる。
陸奥国府にあたる施設は何度か移転をしていたと見られている。宮城郡、郡山遺跡、霊山参照。
[編集] 歴史
文献上の出現は「続日本紀」の839年(承和6年)の記事で、780年の伊治呰麻呂の乱で一時焼失した後に再建された事が書かれている。802年に坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市)へ移されて、兵站的機能に移ったと考えられる。
中世の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能し、1097年にも陸奥国府が焼失している。南北朝時代には。後醍醐天皇の建武の新政において陸奥守に任じられた北畠顕家、父の北畠親房らが義良親王(後村上天皇)を奉じて東北へ赴き、多賀城を拠点に東北経営を行う。
近年では、曲水宴遺構が出土し、その編年の再検討も含めて注目されている。現在は特別史跡に指定され、政庁跡や城碑、復元された塀などが残されている。
[編集] 環境
後背地に「加瀬沼」を配し、陸奥国内100社を合祀する「陸奥総社宮」を奉ずる。陸奥国一ノ宮塩竈神社を精神的支柱として、千賀ノ浦(塩竈湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する。
[編集] 参考
政庁跡へは、東北本線国府多賀城駅より徒歩10分。なお、出土物の多くは東北歴史博物館に収蔵されている。