北畠親房
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北畠 親房(きたばたけ ちかふさ、永仁元年1月29日(1293年3月8日) - 正平9年/文和3年5月10日(1354年6月1日))源親房。南北朝時代の公家である。父は北畠師重、母は藤原隆重女。顕家・顕信らの父。「神皇正統記」の作者。北畠家は村上源氏庶流。
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[編集] 生涯
1293年正月(旧暦)に生まれる。生後わずか半年で五位に叙される。15歳の時に自分の同役に本来なら任命されるべきでない官位の低い人物が任命された事に抗議して後二条天皇に辞表を出すなど剛直な面を見せる。、後伏見院政下の18歳で参議に任じられ、翌年に検非違使別当を務めた。1318年(文保2年)に後醍醐天皇が即位すると、後醍醐の皇子世良親王の養育を託される。吉田定房・万里小路宣房と共に「三房」と呼ばれ、後醍醐の信任厚かった。これまで北畠氏には許されていなかった源氏長者(1323年(元亨3年))・大納言(1325年(正中元年))に任命されるが、1330年(元徳2年)、世良親王急死の責任を感じて38歳の若さで出家(当時、従二位大納言・源氏長者・内教坊別当)して政界から一旦は引退している(この時、従一位と儀同三司(准大臣)に任じられた(時期については異説あり)。従って、正中の変にはじまる後醍醐の鎌倉幕府倒幕計画には加担してはいなかったようである(その一方で父・師重の従兄弟にあたる北畠具行が元弘の変で処刑されている)。鎌倉幕府が倒され、後醍醐の建武の新政が開始されると、親房は再び政治の舞台へ登場する。奥州鎮定を命じられた息子北畠顕家に随行し、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城へ赴く。1335年(建武2年)、北条氏の残党による中先代の乱が起き、討伐に向かった足利尊氏がそのまま建武政権から離反すると、尊氏を討伐するために京へ戻り、尊氏に京都を占領されると、京都を逃れた後醍醐が吉野(奈良県吉野郡吉野町)で開いた南朝に従い、北朝と対抗する。
1338年(延元3年/暦応元年)に息子顕家が戦死した後、親房は伊勢において、度会家行の協力を得て南朝勢力の拡大を図る。ここで親房は家行の神国思想に深く影響を受ける事になった(ただし家行の唱えた伊勢神道自体に対しては批判的であったといわれている)。その後、関東地方に南朝勢力を拡大するために結城宗広とともに、義良親王・宗良親王を奉じて伊勢国大湊(三重県伊勢市)から海路東国へ渡ろうとするが、暴風にあい両親王とは離散し単独で常陸国へ上陸。はじめは神宮寺城(茨城県稲敷市)の小田治久を頼り、佐竹氏に攻められ落城すると阿波崎城、さらに小田氏の本拠である小田城(茨城県つくば市)へと移る。親房は陸奥国白河(福島県白河市)の結城親朝はじめ関東各地の反幕勢力の結集を呼びかける。『神皇正統記』・『職源鈔』の執筆がされたと言われているのはこの時期の事である。1340年(興国元年/暦応3年)、北朝方が高師冬を関東統治のために派遣すると、親房は小田氏に見限られ、関城(茨城県筑西市)の関宗祐、大宝城(茨城県下妻市)の下妻氏を頼り、霞ヶ浦沿岸の諸城を転々とする。親房の常陸での活動は5年に渡った。しかし、南朝方に従った近衛経忠(南朝の関白左大臣)が藤氏長者の立場で独自に東国の藤原氏系武士団の統率体制を組もうとした事もあって、親房の構想は敵と身内の両方から突き崩される結果となり、1343年(興国4年/康永2年)に両城が陥落すると吉野へ帰還している。
1348年(正平3年/貞和4年)に四條畷の戦いで楠木正行ら南朝方が高師直に敗れると、吉野から賀名生(奈良県五條市)に落ち延びる。後醍醐の死後は後村上天皇を補佐し、観応の擾乱と呼ばれる足利氏の内紛による騒乱がはじまり、尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、これに乗じて一時は京都と鎌倉の奪回にも成功する。1354年に賀名生で死去。親房の死後は南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は北朝との和睦に傾いていく。法名:覺空(ちなみに最初の出家の時の法名は「宗玄」)。
阿部野神社(大阪市阿倍野区)や霊山神社(福島県伊達市)に北畠顕家と共に祀られている。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦(明治5年12月2日以前を適用)
- 1293年(正応5)6月24日、従五位下に叙位。
- 1294年(永仁2)1月6日、従五位上に昇叙。
- 1297年(永仁5)2月18日、正五位下に昇叙。
- 1298年(永仁6)5月23日、従四位下に昇叙。
- 1300年(正安2)1月5日、従四位上に昇叙。 閏7月14日、元服し、兵部権大輔に任官。
- 1303年(乾元2)1月20日、左近衛少将に遷任。 12月17日、正四位下に昇叙し、左近衛少将如元。 12月30日、右近衛中将に転任。
- 1305年(嘉元3)11月18日、権左少弁に遷任。
- 1306年(徳治元)12月22日、左少弁に遷任。
- 1307年(徳治2)11月1日、左少弁を辞任し、弾正大弼に転任。
- 1308年(延慶元)11月8日、従三位に昇叙し、弾正大弼如元。
- 1310年(延慶3)3月9日、正三位に昇叙し、弾正大弼如元。 12月17日、参議に補任。弾正大弼如元。
- 1311年(応長元)1月17日、左近衛中将を兼任。 3月30日、弾正大弼を止め、備前権守を兼任。 7月20日、左兵衛督を兼任し、検非違使別当に補任。 12月21日、権中納言に転任。検非違使別当・左兵衛督如元。
- 1312年(正和元)3月15日、検非違使別当・左兵衛督を止む。 8月10日、従二位に昇叙し、権中納言如元。
- 1315年(正和4)4月17日、権中納言を辞任。
- 1316年(正和5)1月5日、正二位に昇叙。
- 1318年(文保2)12月10日、権中納言に還任。
- 1319年(元応元)8月5日、中納言に遷任。
- 1320年(元応2)10月21日、淳和院別当・源氏長者両職兼帯。
- 1322年(元亨2)4月5日、右衛門督を兼任し、検非違使別当に補任。
- 1323年(元亨3)1月13日、権大納言に転任し、淳和院別当如元。 5月、奨学院別当を兼帯。 6月15日、陸奥出羽按察使を兼任。
- 1324年(元亨4)4月27日、大納言に遷任し、淳和奨学両院別当・陸奥出羽按察使如元。
- 1325年(正中2)1月7日、内教坊別当を兼帯。
- 1326年(正中3)2月9日、陸奥出羽按察使を辞任。
- 1330年(元徳2)3月5日、従一位に昇叙し、准大臣宣下。 9月17日、出家。法名:宗玄 のち、覚空と改める。
- 年月日不詳、准后(准三宮)宣下。
- 1908年(明治41)9月9日、贈正一位。
[編集] 参考文献
- 白山芳太郎『北畠親房の研究』(ぺりかん社、1998年増補版) ISBN 4831508365
- 伊藤喜良『東国の南北朝動乱 北畠親房と国人』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2001年) ISBN 4642055312
- 下川玲子『北畠親房の儒学』(ぺりかん社、2001年) ISBN 483150954X
[編集] 北畠親房を題材とした作品
- 志茂田景樹『南朝の日輪 北畠親房』(秋田書店、1991年) ISBN 4253002994
- 童門冬二『小説 北畠親房 南北朝の梟』(成美堂出版成美文庫、1998年) ISBN 4415064892
[編集] 関連事項
カテゴリ: 北畠氏 | 南北朝時代の人物 (日本) | 1293年生 | 1354年没