大河内正敏
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大河内 正敏(おおこうち まさとし、1876年(明治9年)12月6日 - 1952年(昭和27年)8月29日)は、物理学者であり実業家である。東京都出身。子爵。理化学研究所(理研)の3代目所長、貴族院議員。孫は女優の河内桃子。
[編集] 来歴・人物
旧上総大多喜藩主で、子爵大河内正質の長男として東京浜松町に生まれた。のち旧三河吉田藩の子爵大河内家の養子となる。学習院初等科時代は、大正天皇の御学友であった。学習院高等科を経て、東京帝大工学部造兵学科に入学。1903年東大を卒業、講師となる。その後私費でヨーロッパに留学し、帰国後1911年には34歳で東大教授に就任。この頃寺田寅彦と共同で飛行弾丸の流体的な実験を行う。
1915年、貴族院議員に初当選。1918年、原内閣の海軍政務次官。1921年理化学研究所の所長に登用され、理研に主任研究員に自由をもたせる研究室制度を導入するとともに、研究成果の事業化を進めた。1925年には東大教授の職を辞し理研の所長職に専念。
1927年に研究成果の事業化を目的に理化学興業株式会社を設立する。その後も76におよぶ理研グループ(理研産業団)の会社を興し、理研産業団を新興財閥の一角を占めるまでに成長させる。1943年には、内閣顧問に就任している。
1946年に戦犯容疑(冤罪)による公職追放で所長を辞任するまで、理研グループ企業の特許使用料で広い分野の研究者たちの自由な研究をささえた。1952年8月29日死去。享年75。
無名時代の田中角栄を引き立てたことでも知られる。
参考:「日本科学者伝」(小学館)-大河内正敏 なお、氏は主人公の一人として漫画「『栄光なき天才たち』第6巻」の「理化学研究所(1917~)」に登場する。