大多喜藩
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大多喜藩(おおたきはん)は、上総国大多喜城(現在の千葉県夷隅郡大多喜町大多喜四八一)に存在した藩。
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[編集] 藩史
小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・本多忠勝に上総大多喜に10万石を与えた。これが大多喜藩の立藩である。ちなみに忠勝は言うまでもなく戦国時代でも名だたる豪傑であり、武田信玄や織田信長にもその武勇を認められ、「家康に過ぎたる者」とまで言われた武将である。忠勝は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本隊に属して本戦に出陣して武功を挙げたため、戦後、伊勢国桑名藩に移された。忠勝の本家は長男の本多忠政が継ぐ予定だったため、大多喜には5万石で次男の本多忠朝が残った。忠朝は領内の検地を実施して藩政の固めに専念したが、大坂夏の陣で戦死してしまった。死後、家督は甥の本多政朝が継いだが、元和3年(1617年)9月、播磨国龍野藩に移され、代わって武蔵国鳩ヶ谷藩から阿部正次が3万石で入った。元和5年(1619年)9月、正次は相模国小田原藩に移されたため、大多喜藩は一時的に廃藩となった。
元和9年(1623年)10月、徳川家光の勘気を被って老中を罷免された上、武蔵国岩槻藩から減移封となって2万石で大多喜に青山忠俊が入ったが、忠俊はやがて改易の上、下総国網戸に蟄居となったため、大多喜藩は廃藩となった。
寛永15年(1638年)4月、武蔵国岩槻藩主・阿部正次の孫・阿部正能が祖父から1万石を分与されて大多喜藩主として入った。正次の死後、岩槻藩主の座はその子・阿部重次が継いでいたが、重次は慶安4年(1651年)に徳川家光に殉死した。重次の死後、正能は6000石を分与されて1万6000石を領する大名となる。翌年、正能は武蔵国忍藩主・阿部忠秋の養子となったため、6000石を阿部定高に返還している。そして正能は寛文11年(1671年)5月25日、武蔵忍藩を継ぐこととなり、代わって大多喜には同年12月、岩槻藩主であった阿部正春が1万6000石で入った。正春は元禄15年(1702年)9月7日、三河国刈谷藩に移される。
入れ替わりで徳川綱吉政権下で若年寄を務めていた稲垣重富が2万5000石で入る。ところが、わずか21日間で城地が狭すぎるという理由から下野国鳥山藩に移った。代わって相模国玉縄藩から大河内長沢松平家の松平正久が2万石で入ったことにより、ようやく藩主家が安定した。最後の藩主・松平正質は幕末期の中で老中格・若年寄・奏者番などを歴任する。明治元年(1868年)の戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでも幕府軍の指揮を任されたが、大敗を喫して江戸へ逃れた。その後、正質は戦犯として新政府から官位と所領の没収を宣告され、佐倉藩に幽閉されてしまった。しかし、同年のうちに許されている。翌年の版籍奉還で正質は藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で大多喜藩は廃藩となって大多喜県となる。その後、木更津県を経て千葉県に編入されたのである。
[編集] 歴代藩主
[編集] 本多(ほんだ)家
譜代。10万石→5万石。
[編集] 阿部(あべ)家
譜代。3万石。
- 阿部正次(まさつぐ)<従四位下。備中守>
[編集] 廃藩(はいはん)
[編集] 青山(あおやま)家
譜代。2万石。
- 青山忠俊(ただとし)<従五位下。伯耆守>
[編集] 廃藩(はいはん)
[編集] 阿部(あべ)家
譜代。1万石→1万6000石。
- 阿部正能(まさよし)<従五位下。播磨守>
- 阿部正春(まさはる)<従五位下。伊予守>
[編集] 稲垣(いながき)家
譜代。1万5000石。
- 稲垣重富(しげとみ)<従五位下。和泉守>
[編集] 松平(長沢・大河内)(まつだいら(ながさわ・おおこうち))家
譜代。2万石→改易→2万石。
- 松平正久(まさひさ)<従五位下。備前守>
- 松平正貞(まささだ)<従五位下。備中守>
- 松平正温(まさはる)<従五位下。備前守>
- 松平正升(まさのり)<従五位下。備前守>
- 松平正路(まさみち)<従五位下。弾正忠>
- 松平正敬(まさかた)<従五位下。織部正>
- 松平正義(まさよし)<従五位下。備中守>
- 松平正和(まさとも)<従五位下。織部正>
- 松平正質(まさただ)<従五位下。弾正忠>