大清皇帝功徳碑
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大清皇帝功徳碑 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 대청황제공덕비 |
漢字: | 大清皇帝功徳碑 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
だいしんこうていこうとくひ |
片仮名: (現地語読み仮名): |
テチョン=ハンジェ=コンドック=ビ |
ラテン文字転写: | Samjeondo Monument |
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大清皇帝功徳碑(だいしんこうていこうとくひ)は、大韓民国の京畿道三田渡(現ソウル特別市松坡区石村洞 289-3)にある石碑であり、三田渡碑(さんでんとひ、サムジョンドビ, 삼전도비)とも呼ばれる。韓国では後述の経緯から「恥辱碑」とも言われる。
碑の名称は以下である。
- 満州語: Daicing gurun i Enduringge Han i gung erdemui bei
- モンゴル語: Dayičing ulus-un Boɤda Qaɤan-u erdem bilig-i daɤurisɤaɤsan bei
- 中国語: Daqing Huangdi Gongde Bei (大清皇帝功德碑)
目次 |
[編集] 経緯
李氏朝鮮は14世紀末の建国以来、明(中国)の朝貢国であったが、17世紀に入ると満州(中国東北部)で女真族が建てた後金が勃興、李氏朝鮮と対峙するようになった。1627年には後金が朝鮮へ侵攻した(丁卯胡乱)が膠着し、両者が兄弟関係を結ぶことで講和した(丁卯約条)。しかし朝鮮では古来から同国にも朝貢に来ていた女真族を「北狄/オランケ」(野蛮人)と蔑すむ考えが多く、とりわけ保守的な儒者は後金との決戦を唱え続けるなど火種はくすぶっていた。
後金は1636年、ホンタイジが皇帝を称し、国号を清と変更すると、朝鮮に対して朝貢及び明への派兵を求めた。しかし現実主義者で外交感覚に優れた光海君と違い、空虚で錆付いた華夷思想に染まっていた時の朝鮮王仁祖にとって、永く朝貢を受ける相手であった女真族の要求は到底呑めるものではなかった。仁祖が朝貢を拒絶し、清皇帝を認めないと公表すると、激怒したホンタイジは直ちに朝鮮への親征を行った(丙子胡乱)。清の圧倒的な兵力の前に各地で惨敗を重ねた朝鮮軍は為すすべも無く45日で降伏。和議が持たれた。講和内容は11項目に及び、清への朝貢と清からの冊封、明との断交、朝鮮王子を人質に差し出す、膨大な賠償金など屈辱的なものであった。そればかりか仁祖は三田渡で、ホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)を以って清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった[1]。
朝鮮ではその後も明に与しようとする論が残ったが具体化すること無く、やがて明が滅亡すると(1644年)沙汰止みとなった。明滅亡を機に清による東アジアの冊封体制が固まる一方、朝鮮では一部の儒者の間で自らを中華文化の後継者だとする小中華思想が唱えられることになる。
その後、同碑は日清戦争を経た1895年、迎恩門と同時期に倒され地中に埋められた。しかし日韓併合後の1913年には引き上げられ、さらに光復後(1945年)に再び埋められたものの、1963年に再び洪水で地表に姿を表したので、修復されて現在に至っている。
[編集] 碑文要約(漢文)
この碑文は、亀の背の台座(亀趺)の上に碑身があり上部は蛟首である。高さ5.7m、幅1.4m、奥行3.95mで、大理石で作られている。現存のうち1碑は亀趺だけである。
前左側を蒙古文, 右側を満洲文, そして裏面が漢文となっている。碑文の詳細は外部リンクを見られたい。
- 愚かな朝鮮王は偉大な清国皇帝に逆った。
- 清国皇帝は、愚かな朝鮮王を窘め、この大罪を諭してやった。
- 良心に目覚めた朝鮮王は、自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。
- 我が朝鮮は、この清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆った愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする。
[編集] 石碑
清皇帝ホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、建立させた。これが三田渡碑である。碑はその後何度か埋められたり戻されたりししたが、1963年に現在の場所に復元された。なお、3つの言語の内容は完全に同一ではないことが確認されており、満州語の部分には詳細な経緯も記述されている。 韓国では「史蹟第101号」(1957.2.1)に指定されている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献及び外部リンク
- 清初に於ける滿鮮關係と三田渡の碑文, (著者 鴛淵一) 雑誌 史林 Vol.13-[2] , 昭和3年.
- 大清皇帝功徳碑の復元記念レリーフ
- 大清皇帝功徳碑の要約
- ソウル三田渡碑
- 大清皇帝功徳碑
- s:zh:大淸皇帝功德碑: 中国文(Wikisource)
- 満州語,モンゴル語 中国語
[編集] 脚注
- ^ この三跪九叩頭の礼は、1793年に清とイギリスとの関係で、再び世界史の舞台に登場する。ジョージ・マカートニーを参照)
- ^ 4回の連載。一部満州語の転写で誤りがある
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