大田正一
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大田正一(おおた しょういち、1912年8月23日 - ?)は、大日本帝国海軍の軍人、海軍航空機搭乗員(偵察員)。特攻兵器桜花の発案者。当時の階級は特務少尉。山口県熊毛郡室津村(現・上関町)出身。
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[編集] 桜花の発案
大田少尉は、桜花のアイデアを東大航空研究所でさらに具現化した後、空技廠に持ち込んだ。一特務少尉の要請を東大航空研究所が受けた裏には、源田実海軍参謀の紹介状があったためと言われているが、大田特務少尉は源田参謀との関係を一切口外せずに亡くなったため、2人の関係は不明である。尚、採用が決まったことを伝えられた大田少尉は「また、新しい発明を考えて持ってきます」[1]と言ったとされる。(開発の経緯と詳細は桜花参照)
[編集] 行方不明
尚大田少尉は特攻部隊である竜巻部隊722空に所属し、桜花搭乗員となるべく、異例のとりはからいで偵察員から操縦員への転換訓練を受けたが、「適正なし」と判断され、出撃の機会は無かった。そのまま終戦を迎えたが、終戦直後の1945年8月18日神ノ池基地(茨城)において、零式練戦を突然操縦し、離陸後行方不明となり、同年9月5日死亡認定、「航空殉職」として戸籍も抹消される。しかし戦後数々の目撃証言があるため、生存していた可能性が強く、また1994年12月7日、ガンで死亡した人物が自らを「大田」と証言したと言う話しである。
[編集] 評価
神風特攻隊の発令者大西瀧治郎中将(終戦後自決)、回天の発案者黒木博司大尉(操縦訓練中殉職)、仁科関夫少尉(回天にて特攻)に比べ、戦後の評価としては大田少尉は"桜花を発案しておいて自分だけはのうのうと生き延びた"と蔑まれることが多い。しかしこのような評価とは別に、海軍で一特務少尉の案が採用されることは通常ありえず、またこのような案が提出されてもそれを諭すのが指揮官の仕事であり、数ある提出案の中から吟味して採用するのが海軍上層部の仕事ではないのか?このように何故即座に採用されてしまったのかという勢いというだけでは説明しきれない謎があり、これが大田少尉の背後に軍高級幹部がいたのでは?という疑惑に繋がっている。
[編集] 関連項目
[編集] 関連書
- 秦郁彦『昭和史の謎を追う』上(文春文庫、1999年) ISBN 4167453045
- 第20章 「桜花」特攻 大田正一の謎 p499~p533
- 柳田邦男『零戦燃ゆ 5』(文春文庫、1993年) ISBN 4167240130
[編集] 脚注
- ^ ケロッとした表情をして件のことを言ったのを見て「あんな奴の言うことを採用するんじゃなかった」と後悔したと伊藤祐満中佐(大田少尉の直訴を航空本部で受けた人物)が後に語っている。