源田実
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源田 実(げんだ みのる、源田 實、1904年(明治37年)8月16日~1989年(平成元年)8月15日)は、日本の海軍軍人、航空参謀。海軍最終階級は大佐。戦後は空将・航空幕僚長、参議院議員等を務める。広島県山県郡出身。従三位勲二等旭日重光章。
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[編集] 経歴
広島県加計町(現安芸太田町)の農家に生まれ、1921年(大正10年)広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)を卒業、パイロットに憧れて同年海軍兵学校の入学試験に合格(海兵52期)、1924年(大正13年)7月同校を卒業。1928年(昭和3年)11月30日に霞ヶ浦航空隊に入隊、1929年(昭和4年)11月第19期飛行学生修了、同年日本海軍は空母「赤城」「鳳翔」によって第一航空戦隊を編成、翌年6月源田は赤城への乗組みを命じられる。
1930年(昭和5年)にはロンドン海軍軍縮会議があり、米英日が保有できる主力艦船の比率がそれぞれ5対5対3に定められた。これは換言すれば、このとき列国も航空機ではなく戦艦が戦争の勝敗を決するのだという所謂「大艦巨砲主義」を信仰していたということになる。しかしこれを機に日本では各国に先駆けて、源田たちが主張してきた航空主兵論が台頭しはじめた。この頃、国民からの寄付による軍への飛行機の献納が盛んに行われ、源田大尉は日本各地で行われた献納式のパイロットを務めた。彼が率いる三機編隊による巴宙返り、編隊宙返りは各地で人気を博し、“源田サーカス”と呼ばれ親しまれた。1938年(昭和13年)11月末、駐イギリス大使館武官補佐官に派遣される。第二次世界大戦の英独航空戦を実見した。1940年(昭和15年)10月初帰朝、11月中佐に昇進。
太平洋戦争において源田は真珠湾攻撃、インド洋海戦、ミッドウェー海戦等で航空作戦を第一航空艦隊参謀として指揮した。この「飛行機の勝利」は、空母機動部隊による航空兵力の運用方法とその優位性が世界戦史上初めて示されたものである。「秦の始皇帝は万里の長城を造ってその恥を千載に残し、日本海軍は戦艦大和を造っての悔いを後世に残すか……」大和の建造を知った源田がこう言ったのは有名であり、自ら生粋の戦闘機乗りであった彼は「戦艦無用、航空主兵」論を強く主張し、これからの戦争は飛行機が主役になると早くから予見していた。
日本が連合軍に制空権を奪還されていた1944年(昭和19年)の年末、源田大佐はこれに一矢報いるべく、自身の政治力を生かし他の航空隊から比較的練度の高い搭乗員を引き抜き、そして新鋭の戦闘機紫電改の大部分を集中した航空部隊を内地に編成し、自らその司令に着任した。愛媛県松山基地を根拠地としたこの第343海軍航空隊(2代目)は、翌1945年(昭和20年)の3月19日、来襲した米機動部隊の300機あまりの艦上機を迎え撃ち、このうち57機を撃墜、これに対し味方の空戦での損失は16機という戦果をあげて初陣を飾ったとされている(ただし、米軍の実際の損失は21機だった)。“剣部隊”と名づけられたこの部隊は、本土爆撃に飛来したB29にも多大な損害を与え、終戦に至るまでの防空戦で活躍したと喧伝されているが、実際には戦果より被害の方が多かったとの説もある。尚、剣部隊の活躍は1963年(昭和38年)にちばてつやの戦記漫画『紫電改のタカ』や同年に劇場公開された東宝映画『太平洋の翼』[1]でも描かれ、“源田司令”は“山本五十六長官”のように太平洋戦争のアイコンとして広く知られるようになった。
戦後は、1954年に防衛庁に入庁し、航空幕僚監部装備部長、初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務めた。最終階級は空将。問題となったロッキードF-104の防衛庁引渡しを機にそれらの職を辞し1962年7月、参院選に自由民主党公認で全国区から出馬し第5位で当選。かつての参謀・辻政信の得票を上回る73万票を集めた。以降4期24年務め入閣することはなかったが、党国防部長などを歴任するなど国防族のドンとして防衛・憲法問題に取り組んだ。東京大空襲に代表される無差別爆撃戦術の考案者、カーチス・ルメイの叙勲を推薦(航空自衛隊創設に際する功績)、ルメイは勲一等旭日大綬章を受章。三無事件では首謀者側との接触を疑われる。
頭脳の切れのよさと人を惹きつける魅力から、カリスマ的な軍人として知られる。しかしながらその強引さと、自分と違う意見を一切認めない性格、またカリスマ性からくる極めてリスクの高い作戦を好んで立てて大惨事を招いたことも度々であったため、彼に対する批判もまた根強い。また、稲川会系列の右翼団体大行社を公然と全面支援するなど暴力団との癒着もあり、政治家としての後半生については賛否が分かれる。
晩年に至る数年間は、厚木市愛名の自宅近辺を愛犬と散歩する姿がよく見かけられた。
84歳の波乱の生涯を終えたのは、85歳の誕生日を迎える前日の1989年(平成元年)8月15日。その日は44回目の終戦記念日でもあり、その生涯は、まさに「航空日本」の興廃と共にあった。
[編集] 人物批評
日本海軍軍人の中では有名で、戦後多くのメディアに登場したために肯定的評価を受けることもしばしばあった。しかし、近年、インターネット等で容易に情報を集められる時代になったせいか、批判的な人物評価が増えてきた。それらの批判的意見を総合すると、「海軍において最も航空機の価値を理解した人物に思われていたが、実際の航空機に対する理解は偏狭な部分があり、専門としていた戦闘機以外の機種にその傾向が多く、運用方法に多くの疑問があった」と言われる。
例えば、源田が主唱した航空主兵論にしても、当時世界的に流行していた思想であったが、深い思索も検討もなく流行に乗っただけであるという。当時流行の航空主兵論は爆撃機を主体に考え戦闘機を軽視した思想で、極端な考え方と言える。ここから派生した戦闘機無用論の旗振り役となったのは源田であり、その結果戦闘機パイロットが爆撃機に転向したり、養成削減したりというリストラにつながった。日中戦争での渡洋爆撃で戦闘機なしの長距離侵攻を行った陸攻隊が、敵戦闘機の迎撃により大損害を被った為に海軍は方針転換を行ったが、リストラ期間の影響は大きく、太平洋戦争開戦当時の戦闘機要員不足という結果を招いた。太平洋戦争を通じてパイロット損耗に養成が追いつかなかった原因の一つである。
また戦闘機の戦闘においても「一騎打ち形式の格闘戦」に固執し、欧州や米国における「高速での一撃離脱を主とする新しい戦闘形態」(エネルギー空戦)に対する理解が遅れていた。自身の操縦技能が高かったことから、重戦闘機や防弾装備を極端に嫌い、航空機メーカーから乗員保護について提案がなされても、「腕よりも機械に頼る腰抜けどもを増やすだけ」と一蹴、一貫して否定的であった。そのため、戦況に即した機種開発を望む航空機メーカーの意見が黙殺され、海軍機の多くは開戦時の機材の手直し程度の進化に留まる事を余儀なくされ、諸外国はもとより、陸軍の航空機にも技術的に遅れを取った[2]。この一件に限らず、精神論のために犠牲が拡大したことこそ太平洋戦争の核心であり、記憶に留めておかなくてはならない。
源田の批判者として、海軍兵学校同期で戦闘機畑を歩んだ柴田武雄が有名である。柴田は戦闘機の開発や運用について源田とぶつかったが、海軍内の影響力で源田に劣り、源田の方針で決まる事が多かった。現在の評価では柴田の思想が正しかったとされる。柴田の部下であった坂井三郎も戦後の発言や著書で源田を批判している。直属の部下も、源田に対し否定的な見方をする者も少なく無かったようで、自分の部隊を特攻隊にしようと源田が画策し、「だったらアンタをはじめとする兵学校出の者が先に行け!」と部下から叱責された。特攻は源田が考え、大西瀧治郎が実行した(戦後の慰霊祭で源田は特攻隊員の遺族に詰め寄られた)。しかし、大西は終戦時に割腹自殺を遂げ、源田も特攻に関して語らないまま死亡した。源田は良くも悪くも海軍航空の中心人物であった。真珠湾攻撃や343空の成功の裏に、ミッドウェー海戦や台湾沖航空戦、航空特攻など源田の犯した間違いの責任は極めて重い。
パイロット能力に関しても疑念が呈されている。理由は、源田にパイロットとしての実戦経験が皆無であることである。実戦と関係ない“源田サーカス”(ブルーインパルスの源流)のようなアクロバット(曲技飛行)や横須賀海軍航空隊[3]では活躍した。戦後、航空自衛隊でジェット戦闘機の資格を取ったことは、生前に自身の宣伝材料となったが、死後、源田の教官を務めたパイロットが源田の技量について「いちじるしく劣る」と証言している[4]。
[編集] 著作
- 『源田実語録 防衛と人生を考える』(善本社、1973年)
- 『海軍航空隊、発進』(文春文庫、1997年) ISBN 416731004X
- 『海軍航空隊始末記』(文春文庫、1996年) ISBN 4167310031
- 『真珠湾作戦回顧録』(文春文庫、1998年) ISBN 4167310058
- 『パールハーバー 運命の日 日米開戦の真実』(幻冬舎文庫、2001年) ISBN 434440131X
[編集] 参考文献
- 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ1 奇襲ハワイ作戦』(学習研究社、1995年) ISBN 4054012574
- 森史朗『運命の夜明け 真珠湾攻撃 全真相』(光人社、2003年) ISBN 4769810970
- 碇義朗『鷹が征く 大空の死闘 源田実VS柴田武雄』(光人社、2000年) ISBN 4769809557