大胡藩
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大胡藩(おおごはん)は、上野国(現在の群馬県前橋市河原浜(旧・勢多郡大胡町大字河原浜))に存在した藩。
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[編集] 藩史
小田原征伐後、関東に入った徳川家康は、譜代の家臣・牧野康成を2万石で大胡城主に入れたことから大胡藩が立藩した。
康成は、徳川氏における勇将で、武田氏との戦いや小田原征伐で戦功を挙げた男である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に属して信濃上田城にて真田昌幸と戦ったが、康成は血気にはやって軍監・本多正信の制止を無視して上田城に攻めかかり、昌幸の知略の前に大敗を喫した。
このため、軍法違反として康成は吾妻城に蟄居処分とされたが、この処分については、馴れ合い説が存在する。
慶長14年(1609年)12月、康成は死去し、子の牧野忠成が後を継ぐ。忠成は元和2年(1616年)7月、越後国長峰藩に5万石で移されたが、当時の長峰には城下町も城も無かったため、その整備に尽力する間は大胡に留まっていた。そして長峰を整備している間の元和4年(1618年)3月21日、越後長岡藩6万石(のちに7万4000石)に加増移封された。このため、直接大胡から長岡へ移ったという伝承がある(長峰藩の項もあわせて参照のこと)。これにより大湖藩は廃藩となり、その所領は前橋藩領として併合されたのである。
[編集] 歴代藩主
[編集] 牧野(まきの)家
譜代。2万石。