太田黒惟信
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太田黒 惟信(おおたぐろ これのぶ、文政10年(1827年) - 明治34年(1901年))は、幕末の熊本藩士。明治時代の政治家。通称は亥和太(いわた)。
幼少より熊本藩時習館、次いで横井小楠塾に入門する。砲術を学んで兵術改革に尽くし、戊辰戦争中の明治元年(1868年)に明治政府へ出仕し、同年12月11日には箱館に政権を築いた旧幕府軍(俗に蝦夷共和国。総裁は榎本武揚)の征討総督に任命される。明治2年(1869年)4月に蝦夷地へ上陸を開始し、茂辺地・矢不来への進撃命令を下して旧幕府軍を圧倒。5月18日には完全に降伏せしめた。恩賞として170石を賜る。
明治3年(1870年)10月、熊本藩少参事に就任。廃藩置県により熊本藩が消滅すると明治4年(1871年)11月に八代県参事に就任する。大蔵省にも務め、明治8年(1875年)5月に大審院判事となるが翌年(1876年)2月には辞任する。しかしまもなく県民会議長となった。同年10月、神風連に襲撃されるが事無きを得て、明治14年(1881年)、岩倉具視協力のもと日本鉄道会社を創設した。
明治34年、死去。享年75。