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存在と時間 - Wikipedia

存在と時間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『存在と時間』(そんざいとじかん、"Sein und Zeit"、1927年)は、ドイツ哲学者マルティン・ハイデッガーの主著。「ものが存在するとはどういうことか」というアリストテレス形而上学』以来の究極的な問いに挑んだ著作であるが、実際に出版された部分は序論に記された執筆計画全体の約3分の1にすぎない。しかし、それにも関わらずこの作品は20世紀哲学の生んだ最も衝撃的な作品として大きな影響力をもちつづけており、それ以降の哲学の潮流の多くが『存在と時間』をその思想的源泉の一つとしてもっている。実存主義構造主義ポスト構造主義(とりわけジャック・デリダ脱構築)など、その影響の及んだ範囲の広さは測り知れない。

目次

[編集] 成立過程

エドムント・フッサールによって創刊された『哲学および現象学研究のための年報』の第8巻(1927年)において発表された。ハイデッガーはすでに師フッサールと見解の相違を見せはじめていたものの、『存在と時間』の献辞は「尊敬と友情の念をこめて」フッサールに捧げられた(ナチス政権下の1942年に刊行された第5版では削除されていた)。

序論で明らかにされる『存在と時間』の全体的構成の概要はおおむね以下の通りである。

  1. 現存在の解釈と時間の解明
    1. 現存在の基礎分析
    2. 現存在と時間性
    3. 時間と存在
  2. 存在論の歴史の現象学的解体
    1. カントの時間論について
    2. デカルトの「我あり」と「思う」について
    3. アリストテレスの時間論について

このうち、実際に書かれたのは第1部第2編までにすぎず、そこで論じられているのは現存在についてである。序論以降ハイデッガーが何度も言明している「存在一般についての問い」に関する考察が書かれるべき〈本論〉は第1部第3編「時間と存在」という、書名自体にも似た標題をもつ章であると考えられるが、そこでハイデッガーが何を書くつもりであったのか、なぜそこへ至る前に中断されてしまったのかは長いあいだ謎とされてきた。

[編集] ナトルプ報告

ハイデッガー自身の証言などから、1923年には『存在と時間』の草稿が書かれていたことが知られていたが、その所在は長らく不明だった。同年にハイデッガーはフライブルク大学の非常勤講師からマールブルク大学への異動が決まっており、そのさいに現在執筆中の著書の概要をまとめたものを審査論文として提示するよう要求され、『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』と題した論考をパウル・ナトルプへ提出していた(通称「ナトルプ報告」)。この論考が『存在と時間』の初期草稿に当たるのではないかと推測する向きと、「アリストテレスの現象学的解釈」と『存在と時間』がいかなる関係をもつのか疑問視する向きとがあったが、この「ナトルプ報告」も行方不明となっていたため結論は出なかった。しかし1989年、マールブルク大学と同時期にやはりハイデッガーを招聘しようとしていたゲッティンゲン大学ゲオルグ・ミッシュに提出した同内容の論考が発見され、その内容から「ナトルプ報告」が『存在と時間』の初期草稿であるとする推測の正しかったことが証明された。そこで明らかにされている本論はアリストテレスの読解を通した古代ギリシアから中世を経て近代に至る存在論、ひいては西洋哲学全体の読み直しであり、問題の第1部第3編「時間と存在」はこの歴史的考察の基盤となるものであること、また序論はその準備段階にすぎないものであること、したがって実際に刊行された『存在と時間』は長大に膨れ上がった序論が本論へたどりつく前に中断されたものであることなどが明らかになった。

[編集] 未完に終わる

1927年の初版以来、この本の末尾には「上巻」の文字があったが、ハイデッガーは1953年の第7版からこれを削除し、後半を書き次いで完成させることを断念する意思をついに明らかにした。弁明としてハイデッガーは、後半を書き加えるには前半もすべて書き直さなければならなくなってしまうことや、存在への問いそのものまで諦めたわけではないこと、それに関しては新著『形而上学入門』(同じく1953年出版)を参照してもらったほうがよいということなどを挙げている。こうして未完成のまま残された『存在と時間』は、現存在についての緊密な分析と解釈をなし遂げてはいるが、その全体的な計画に関する宣言には反して「存在一般の意味」を解明するまでには至らなかった。しかし、その野心的な企図は後の著作において異なる方法によりながら執拗に追求されることとなる。

[編集] 概要

[編集] 存在の意味と現象学的方法

この著作でハイデッガーが取り上げるのは、存在の意味についての問い――ものがあるとはどういうことなのか?――である。これは存在論の根幹をなす問いであり、存在者としての存在(「在るもの」として「在ること」)についての研究としてアリストテレスによって定義された(『形而上学』)。この問題に関しては、命題論理的な見地から展開されたアリストテレスとカント以来の(それぞれの哲学的立場は大きく異なるが)伝統があるにも関わらず、ハイデッガーはそこから離れたアプローチをとった。この伝統には、「理論的な知識はひとりの人間と彼を取り巻く(彼自身も含めた)世界内の存在との根源的な関係を意味する」という命題が内在しているためである。

この命題を峻拒してハイデッガーがとったのは現象学的な方法である。この方法を徹底させることにより、現象学を定式化したフッサールのうちにすらなお見られたアリストテレス的/カント的な認知主義の残滓を一掃しようと考えたのである。フッサールと同様に、ハイデッガーは志向性の現象を考察することから始めた。人間の行為は、何らかの対象や目的を(建築という行為ならば建物を、会話ならば話題を)目指す限りにおいて志向性をもっている。ハイデッガーは志向性を「関心(Sorge)」と呼ぶが、これは「不安(Angst)」の肯定的側面を反映している。ここでいう「関心」は志向的存在に関する基本的な概念であり、存在的なあり方(ただ単にあるだけの存在)とは区別された存在論的なあり方(存在という問題に向き合いながら存在すること)として、存在論的に意味付けられたものである。

註:存在者が存在することは前提的に了解した上でその性質や他の存在者との関係などを問う態度を存在的(ontischen)といい、自然科学などがこれにあたる。存在論的(ontologisch)とは、存在者が存在することそのものを問う態度を指し、形而上学や現象学がこれにあたるが、ハイデッガーはこれらも不十分であるとの考えに立ちながら『存在と時間』を書いた。

理論的な知識が表現するのは志向的な行為のうちの一種にすぎず、それが基づいているのは周囲の世界との日常的な関わり方(約束事)の基本形態であって、それらの根本的な基礎である存在ではないとハイデッガーは主張する。彼は「実存的了解」(実存を実存それ自体に即して了解する)と、「実存論的了解」(何が実存を構成するかについての理論的分析)の二種類に分類した。これは、「存在的―存在論的」と呼応するものであるが、人間存在に範囲を限定したものである。ものは、それが日常的な約束事のコンテクスト(これをハイデッガーは「世界」と呼ぶ)の中に「開示される」限りにおいて、そのような存在者である(そのように存在する)のであって、そのコンテクストを離れても客観的に認められる固有性をもっているからではない。カナヅチがカナヅチであるのは、特定のカナヅチ的性質をもっているからではなく、釘を打つのに使えるからなのである。

[編集] デカルト批判と現存在

こうした方法はまた、デカルト的な実体のない「われ」――純粋な思惟者としての「われ」――の否認を必要とする。デカルトが「われ思う」だけは疑いえないものとしたとき、思っている「われ」の存在様式は無規定のまま放置されたとハイデッガーは述べている。その一方でハイデッガーは、人間の行為に関するいかなる分析も「われわれは世界の中にいる」という事実から(世界を「抽象的に」見る風潮に則らずに)始めなければならない、したがって人間の実存に関して最も根本的な事柄はわれわれの「世界=内=存在(In-der-Welt-sein)」であると主張した。人間もしくは現存在(Da-sein)とは、世界の中で活動する具象的存在なのだということをハイデッガーは強調した。したがって彼は、デカルト以来ほとんどすべての哲学者が自明のこととして依拠する「主観 ― 客観」という区別をも拒否し、さらには意識、自我、人間といった語の使用も避けた(ハイデッガーは「人間」の代わりに「現存在(Da-sein)」という)。これらはいずれもハイデッガーの企図にはそぐわないデカルト的二元論のもとにあるためである。

ものがわれわれにとって意味をなすのは、そのものがある特定のコンテクストの中で使用できるためであり、そしてこのコンテクストは社会的規範によって定義される。しかし、元来こうした規範はみな偶発的で不確定なものである。こうした偶然性は、不安という根源的な現象によって明らかにされる。この不安の中に、すべての規範が投げ出され、ものは本来の無意味さの中に、特になにものでもないものとして開示される(少なからぬ実存主義者によるハイデッガー解釈に反して、これは実存のすべてが不条理なものであるということを意味しない。正確にいうならば、実存がつねに不条理の可能性を抱えているということである)。不安の経験は現存在の本来的な有限性をあらわにする。

存在者が開示されうる(コンテクストにおいて有意味にであれ、不安の経験において無意味にであれ)という事実は、いずれにせよ存在者は開示されうるという先行する事実に基づいている。ハイデッガーはそうした存在者の開示を「真実」と呼んだが、これは正しさというよりは「隠れのなさ」と定義される。この「存在者の真実」(存在者による自己発見)は、より本源的な種類の真実を含む。すなわち「存在者の存在が隠されていない、明るみに出された存在者の発露」である。これはギリシア語で「アレテイア(αληθεια)」と呼ばれ、アリストテレスやヘラクレイトスからハイデッガーによって引き出された概念である。

ハイデッガーにとって、現存在を規定するのはこの存在の隠れなさである。ハイデッガーの用語「現存在」とは、おのれの存在を関心事とする存在者であり、また、おのれの存在をそのように開示させる存在者である。ハイデッガーが存在の意味についての探求を現存在の本質についての探求とともに始めたのはこうしたわけである。存在の隠れなさは基本的に現世的かつ歴史的な現象である(本書を『存在と時間』と題したのもこのためである)。われわれが過去・現在・未来と呼ぶものは本来この隠れなさの見地に照応するものであり、時計によって測定される均一的な時間における排他的な三区域のことではない(難解をもって知られるこの本の最終章においてハイデッガーが証明を試みたように、時計の時間もまた隠れのない本来の時間から派生したものではあるが)。

[編集] 解釈学

総体的な存在了解は、現存在固有の存在に関する潜在的な知識を説明することによってのみ到達できる。ゆえに哲学は解釈という形をとる。これが、『存在と時間』におけるハイデッガーの手法がしばしば解釈学的現象学と呼ばれるゆえんである。『存在と時間』は未完に終わったため、全体的な計画に関するハイデッガーの宣言や、現存在とその時間内的な限界についての緊密な分析と解釈をなし遂げてはいるが、そのような解釈学的手法により「存在一般の意味」を解明するまでには至らなかった。しかし、その野心的な企図は後の著作において異なる方法によりながら執拗に追求されることとなる。

カントは『純粋理性批判』の序文で、外的世界の存在に関する完全な証明がいまだなされていないことを「哲学のスキャンダル」だと嘆いた(自分の著書がそれを与えるのだと自負した)が、ハイデッガーにいわせればそのような証明ばかりが求められることこそ哲学のスキャンダルであった(本書第1篇第6章第43節)。同時に彼の企図は非常に野心的であり、生物学物理学心理学歴史学といった存在的なカテゴリーにおいて研究される特定の事物の存在には関心がなく、追求したのは存在一般についての問い、すなわち「なぜ何も無いのではなく、何かが存在するのか」(ライプニッツ)といった存在論的な問いであった。われわれにとってあまりにも近く自明なものである「存在一般」への問いこそ何よりも困難なものである。

ハイデッガーはこうした問いに対し、「いかにしてわれわれは世界と具体的かつ非論理的な方法で遭遇するか」「いかにして歴史や伝統がわれわれに影響を与え、われわれによって形成されるか」「事実上いかにしてわれわれはともに生きているか」「そしていかにしてわれわれは言語やその意味を歴史的に形成するか」といったことに注視するという最も具体的な方法をもって取り組んだ。こうした企図はヘーゲルプラグマティズムを想起させるが、ハイデッガーは「絶対的」なるものへ向けた歴史的プロセスの綜合的な目的を断定しようというような考えはもっておらず、またより高次の統一における矛盾の解消(いわゆる弁証法)についても語っていない。

[編集] 存在の哲学

ハイデガーの見地においては、行為に対する理論の伝統的優位が逆転される。彼にとって理論的な見解というものは人工的なものであり、関わり合いを欠いたまま事物を見ることによってもたらされるものであり、そうした経験は「平板化」(Nivellierung)されたものである。こうした態度は、ハイデッガーによって「客体的」(vorhanden=すでに手のうちにある)と呼ばれ、相互行為のより根源的なあり方である「用具的」(zuhanden=手の届くところにある)な態度に寄生的な欠如態とされる。寄生的というのは、歴史のうちにおいてわれわれは、世界に対して科学的ないし中立的な態度をもちうるよりも前に、まず第一に世界に対する何らかの態度や心構えをもたなければならないという観念においてのことである。

客体的存在と用具的存在に加えて、現存在の第三の様態として「共同存在」(mitsein)があり、これが現存在の本質となる。他者とは、孤立して存在する単一の主体「私」を除いたすべての人びとのことではなく、たいていの場合はひとが自分自身とは区別していない(ともにある)人びとのことである。例えば、「私」が作物を踏み潰したり土を踏み固めてしまわないよう注意しながら畑の周りを歩くとき、この畑は「私」にとって道具的なものであるが、同時に「誰か」の所有地として、あるいは「誰か」に手入れされている(他の「誰か」にとっても道具的である)ものとしても現れる。この「誰か」たる農夫は、「私」が思考のうちでその畑に付け加えたものではない。なぜなら、畑が耕され手入れされているという事実を通してすでに農夫は自らを現しているからである。このようにしてわれわれは世界内において他者と出会うのであり、またこうして現存在が他者と出会いともにある存在の仕方が「共同存在」であるとハイデッガーは述べる。

「共同存在」には好ましからぬ側面もあり、ハイデッガーは「世間」という語を用いてそれに言及する。つまりニュースやゴシップでしばしば見られるように、「世間では~といわれている」というとき、一般化して断定したり、一切のコンテクストを無視してそれをやり過ごそうとしたりする傾向があるということである。何が信頼に値し、何が信頼に値しないのかという実存的概念が「世間」という考えに依拠して求められるのである。たんに群集のあとを追って他の人々に習うだけでは何の妥当性も保証されないし、社会的・歴史的状況から完全にかけ離れたことが妥当なことだとみなすことなどできないにもかかわらず、「世間」がその平均性のみを妥当なものとして指示するのである(本書第1篇第4章第26 - 27節)。

[編集] 時間性

時間もまた斬新な方法によって考察される。ハイデッガーは、時間というものはアリストテレス以来まったく同じように解釈されてきたと主張する。つまり「過去・現在・未来」という三つの時間が均質的に、しかも無限に続いて存在するというものである。しかしハイデッガーは、根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す(みずからを生起させる)働きのようなものだと主張する。また現在もそれ自体で生起するのではなく、「死へ臨む存在」(Sein-zum-tode)としてのわれわれが行動する(あるいはしない)ときに立ち現れるものである。したがってアリストテレスの均質的な「過去・現在・未来」という時間はこの根源的時間からの派生物にすぎないとして、これらの派生現象を可能にする根源的な「時間性」(Zeitlichkeit、Temporalitätとも)の概念を提示した。

[編集] 哲学史の解体

存在論に関する計画の一環として、ハイデッガーは過去の西洋哲学の再解釈を企てた。彼は理論的な認識がなぜ、またいかにして存在にとって最も本質的な関係をもつものであると見なされるようになったのかを解明しようとした。その試みは哲学的伝統の解体(Destruktion)という形式によってなされたが、これは存在論の歴史において一般的な理論的態度が根強く、そこへ埋没している従来の哲学に則りながら存在についての根源的な経験を暴くという解釈的戦略である。こうした「解体」は、「破壊」のような否定的な意味にばかりではなく、「改築」のような肯定的な意味にも解釈する必要がある。『存在と時間』においては、デカルト哲学の解体が(本格的に展開されるはずであった後半は書かれなかったものの)いくぶん見ることができる。また後の著作においてはアリストテレスやカント、ヘーゲル、プラトンなどの哲学を解釈するのにこの手法を用いた。ジャック・デリダ脱構築は(ハイデッガーの方法とは違いがあるにせよ)この方法からきわめて大きな影響を受けている。

『存在と時間』は初期ハイデッガーの最も偉大な業績であるが、他にも以下のような重要な著作が同じ時期に書かれている。

  • 『現象学の根本問題』(Die Grundprobleme der Phänomenologie、1927年)
  • 『カントと形而上学の問題』(Kant und das Problem der Metaphysik、1929年)
  • 『形而上学とは何か』("Was ist Metaphysik?"、1929年)

[編集] 関連項目

[編集] 日本語へ翻訳した者

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