孟獲
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孟獲(もうかく、生没年不詳)は中国の三国時代の蜀漢期の南方の豪族。
[編集] 略歴・人物
[編集] 生涯
この人物は『三国志』のうち、陳寿が著した本文部分には登場せず、裴松之が『華陽国志』から引用した注釈部分にわずかに登場する。これは烏桓などの北方勢力と違い、正当王朝の魏に関わらない勢力である為である。
以下は『華陽国志』諸葛亮伝による
建寧郡出身で、漢族とタイ族の混血とされる。
雍闓が蜀に対して反乱を起こした際に、雍闓からの依頼を受けて南蛮(蜀漢から見た南蛮(西南夷)は現在の雲南省周辺、または南方のミャンマー北部)の者達に蜀漢に対して反乱を起こすように説得して回った。
225年、諸葛亮が南蛮の地を支配しようと攻めて来た時には周りの人間は雍闓を殺して孟獲を擁立した。しかし、諸葛亮の前に孟獲は何度も渡り捕まるが、その度に放された。諸葛亮は仮に武力でこの地を征服しても、蜀漢軍が撤退すれば、いずれ反乱が再発することがわかっていたので、現地の人達を心服させるために、このような処置を採ったのである。七度目も放された時に孟獲はついに諸葛亮に心服し、蜀漢への帰順を誓ったという(七縱七禽)。
やがて225年秋9月に、諸葛亮が滇池に到達した。その頃は南中四郡は孟獲の威光で平定された。現地の住民の老若男如を問わずに、土豪の焦・雍・婁・爨・孟・量・毛・李氏の支配下に置かれた。そこで諸葛亮はその中に勇敢な若者を抜擢した。その中から建寧郡の爨習、朱提郡の孟琰らが孟獲の推挙によって官吏として召し出されたという。後に孟獲は功績を立てて御史中丞(官吏に対する監察と弾劾の役職)まで昇進した。さらに、孟獲は李恢・爨習と共に建寧郡の名士として称えられている。
また、裴松之が『漢晋春秋』・『襄陽記』(現在はいずれも散逸)などの書物からの引用した部分に孟獲の名が記されてあり、『漢晋春秋』には七縱七禽の逸話などがある。
『漢晋春秋』によれば、孟獲は西南夷(異民族)の酋長とあるが、後に御史中丞に昇進した事を考えると漢人の血が混じっているのではないかともいわれている。
[編集] 演義での孟獲
『演義』では南蛮の王として登場する。『演義』での孟獲は妻の祝融夫人や彼の率いる南蛮軍と共に、漢民族の観点から「異民族の無知さ・コミカルさ」を強調した描写になっており、蜀と南蛮の戦いの条は『演義』中でも特にユーモアに溢れている。そして何度も諸葛亮と戦うが、七縱七禽により心服して蜀に従ったという筋書きにより、より明快に「中華の徳に帰化する蛮族」という図を描き出している。悲劇が続く演義後半でのオアシス的存在となっているようである。また、兄の孟節や弟の孟優、祝融の弟で義弟にあたる帯来洞主も登場する。
しかし、穿った見方をすれば異民族を服従させているのであり、これらは漢民族側からの一方的な書き方であるとも言える。また、現地の少数民族の伝承では、逆に孟獲が諸葛亮を七度捕らえたとなっている。