宇井純
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宇井 純(うい じゅん、1932年6月25日 - 2006年11月11日)は、公害問題研究家。沖縄大学名誉教授。元東京大学工学部都市工学科(衛生工学コース)助手(実験担当)。東京都出身。
1956年、東京大学工学部応用化学科卒業。日本ゼオンに勤務した後、1959年に東京大学大学院工学系研究科に戻り、応用化学科、土木工学科に所属し、1965年に新設の都市工学科助手となる。専門は下水道。
従来の科学技術者の多くが公害企業や行政側に立った「御用学者」の活動をしてきたと批判し、公害被害者の立場に立った視点を提唱し、新潟水俣病の民事訴訟では弁護補佐人として水俣病の解明に尽力するなどの活動を展開した。 ペンネームとして富田八郎(よみは「とみたはちろう」、または「とんだやろう」)を用いたことがある。
1970年より、公害の研究・調査結果を市民に直接伝え、また全国の公害問題の報告を現場から聞く場として公開自主講座「公害原論」を東京大学工学部82番教室にて夜間に開講。 以後15年にわたって講座を続け、公害問題に関する住民運動などに強い影響を与えた。こうした活動は大学当局にとっては非公認の活動であり、都市工学科の内部では「万年助手」の地位にとどめられる。外部からは、同時期に都市工学科の万年助手であった中西準子とともに「東大都市工学科の良心」とみなされることもあった。
一方、カルト団体幸福会ヤマギシ会を支援するなど、負の側面も見せた。熊本日々新聞編集委員・春木進は、「宇井氏のヤマギシ観にも、コミューンへの抜きがたい共鳴や支持の心理があるように感じられる。そして革新的な団体は人権を侵害するような行為はしないという、幻想に近い確信も…」と述べている(『救い』の正体,『カルトの正体』)。
1986年、21年間にわたった東大助手の職を辞し、沖縄大学法経学部教授に就任。沖縄の環境問題をはじめとして世界的な環境問題に取り組むとともに、公害論の授業(月曜日2コマ及び6コマ)を担当した。 また公開ゼミナール「沖縄の水」(月曜日7コマ)では、実践的環境公害問題研究を行っていた。このゼミナールは学生から、「限りなく体育系」と呼ばれていた。
2003年、沖縄大学を退職し名誉教授の称号を授与された。
2006年11月11日、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため、東京都港区の病院で死去した。74歳。
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[編集] 主な受賞歴
[編集] 主要著書
- 『公害の政治学 水俣病を追って』(三省堂新書 1968年)
- 『公害原論』(亜紀書房 1971年)
- 『大学解体論』(生越忠との共著 亜紀書房 1975年)
- 『キミよ歩いて考えろ : ぼくの学問ができるまで 』(ポプラ社 1997年)
- 『谷中村から水俣・三里塚へ : エコロジーの源流』(編集 社会評論社 1991年)
- 石牟礼道子編『水俣病闘争 わが死民』 創土社
[編集] 参考文献
- 別冊宝島461号『「救い」の正体』ISBN 4796694617
- 別冊宝島編集部『「カルト」の正体』宝島社文庫 ISBN 4796616853
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 人物関連のスタブ項目 | 日本の工学者 | 1932年生 | 2006年没