対華21ヶ条要求
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
対華21ヶ条要求(たいか21かじょうようきゅう)は、第一次世界大戦中、日本が中国政府に行った21か条の要求と希望。二十一か条要求などとも呼ばれる(中国語版では「二十一条」)。
目次 |
[編集] 経緯
第一次世界大戦勃発後の1915年1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)が中華民国の袁世凱政権に5号21か条の要求を行った。主に次のような内容であった。
- ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること
- 関東州の租借期限を延長すること
- 満鉄の権益期限を延長すること
- 沿岸部を外国に割譲しないこと
- 5号条項として、中国政府に政治経済軍事顧問として日本人を雇用すること など
5号条項は秘密・希望条項とされていたが、中国側が暴露し、国際的、主にアメリカからの批判を浴びた日本は5号条項を撤回した。中国国内でも反対運動が起こったが、日本側は5月7日に最終通告を行い、同9日に袁政権は要求を受け入れた。国民は要求を受諾した日(5月9日)を国恥記念日と呼んだ。
[編集] 特徴
この要求の草案は非常に短時間で作られたものであり、要求は希望条項を除いて、現在から、過去に起こった事項に関する事へと順に遡って記述されるという特徴的な構成となっている。
[編集] 原文
第1号 山東問題の処分に関する条約案
- 日本国政府及支那国政府は、偏に極東に於ける全局の平和を維持し且両国の間に存する友好善隣の関係を益々鞏固ならしめんことを希望し、ここに左の条款を締結せり。
- 支那国政府は、独逸国が山東省に関し条約其他に依り支那国に対して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、日本国政府が独逸国政府と協定すべき一切の事項を承認すべきことを約す。
- 支那国政府は、山東省内若くは其沿海一帯の地又は島嶼を、何等の名義を以てするに拘わらず、他国に譲与し又は貸与せざるべきことを約す。
- 支那国政府は、芝盃又は龍口と膠州湾から済南に至る鉄道とを聯絡すべき鉄道の敷設を日本国に允許す。
- 支那国政府は、成るべく速に外国人の居住及貿易の為自ら進で山東省に於ける主要都市を開くことを約す。其地点は別に協定すべし。
第2号 南満東蒙に於ける日本の地位を明確ならしむる為の条約案
- 日本国政府及支那国政府は、支那国政府が南満州及東部内蒙古に於ける日本国の優越なる地位を承認するに依り、ここに左の条款を締結せり。
- 両締約国は、旅順大連租借期限並南満州及安奉両鉄道各期限を、何れも更に九九カ年づつ延長すべきことを約す。
- 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、各種商工業上の建物の建設又は耕作の為必要なる土地の賃借権又は其所有権を取得することを得。
- 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、自由に居住往来し各種の商工業及其他の業務に従事することを得。
- 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける鉱山の採掘権を日本国臣民に許与す。其採掘すべき鉱山は別に協定すべし。
- 支那国政府は、左の事項に関しては予め日本国政府の同意を経べきことを承諾す。
- 南満州及東内蒙古に於て他国人に鉄道敷設権を与え、又は鉄道敷設の為に他国人より資金の供給を仰ぐこと
- 南満州及東部内蒙古に於ける諸税を担保として他国より借款を起こすこと
- 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける政治財政軍事に関し顧問教官を要する場合には、必ず先ず日本国に協議すべきことを約す。
- 支那国政府は本条約締結の日より九九カ年間日本国に吉長鉄道の管理経営を委任す。
第3号 漢冶萍公司に関する取極案
- 日本国政府及支那国政府は、日本国資本家と漢冶萍公司との間に存する密接なる関係に顧み且両国共通の利益を増進せんが為、左の条款を締結せり。
- 両締約国は、将来適当の時機に於て漢冶萍公司を両国の合弁となすこと、並支那国政府は日本国政府の同意なくして同公司に属する一切の権利財産を自ら処分し又は同公司をして処分せしめざることを約す。
- 支那国政府は、漢冶萍公司に属する諸鉱山付近に於ける鉱山に付ては同公司の承諾なくしては之が採掘を同公司以外のものに許可せざるべきこと、並其他直接間接同公司に影響を及ぼすべき虞ある措置を執らんとする場合には先ず同公司の同意を経べきことを約す。
第4号 中国の領土保全の為の約定案
- 日本国政府及支那国政府は、支那国領土保全の目的を確保せんが為、ここに左の条款を締結せり。支那国政府は、支那国沿岸の港湾及島嶼を他国に譲与し若くは貸与せざるべきことを約す。
第5号 中国政府の顧問として日本人傭聘方勧告、其他の件
- 中央政府に政治財政及軍事顧問として有力なる日本人を傭聘せしむること。
- 支那内地に於ける日本の病院、寺院及学校に対しては、其土地所有権を認むること。
- 従来日支間に警察事故の発生を見ること多く、不快なる論争を醸したることも少からざるに付、此際必要の地方に於ける警察を日支合同とし、又は此等地方に於ける支那警察官庁に多数の日本人を傭聘せしめ、以て一面支那警察機関の刷新確立を図るに資すること。
- 日本より一定の数量(例えば支那政府所要兵器の半数)以上の兵器の供給を仰ぎ、又は支那に日支合弁の兵器廠を設立し日本より技師及材料の供給を仰ぐこと。
- 武昌と九江南昌線とを聯絡する鉄道及南昌杭州間、南昌潮州間鉄道敷設権を日本に許与すること。
- 福建省に於ける鉄道、鉱山、港湾の設備(造船所を含む)に関し外国資本を要する場合には、先ず日本に協議すべきこと。
- 支那における本邦人の布教権を認むること。
[編集] その後の展開
中国の門戸開放(Open door)を唱えるアメリカは、日本の中国市場独占を抑えるため、1917年に石井・ランシング協定を結んだ。1919年、大戦後のパリ講和会議でも日本の要求が認められたが、中国国内では学生デモを発端に各地でストライキが起こり、軍閥政権は屈服した(五四運動)。日本の中国政策を批判する国際(特にアメリカの)世論が高まり、ワシントン海軍軍縮条約の場を借りた二国間協議で、日本は山東省権益などを放棄した。
[編集] 評価
第一次世界大戦の隙を突いて、露骨な帝国主義的要求を強要したものであった。外交的に非常に拙いやり方であり、火事場泥棒的な行為は大隈重信の晩節を汚すものであったといえよう。また、加藤高明もこの件をきっかけに国際協調を信念とする元老西園寺公望から嫌われて、度々後継首相候補に名前を上げられながらも西園寺の反対で後継推挙されないという事態を招いた。また、同じく元老である山県有朋は、この要求により、将来的な世界情勢がアメリカ、イギリスを始めとするアングロサクソン対日本の構成になることを恐れ、これに反対していた。
但し、東郷茂徳の手記『時代の一面』によれば、袁世凱に要求を提出した当時の日置益駐華公使の話として「21ヶ条の要求」自体が袁世凱の方から日本側に持ちかけた話だという伝聞が記述されている。一連の事件後、袁世凱は受諾に追い込まれたのは共和制下の弱体化した国家権力のせいだとして、「中華民国の国家体制」に責任を転嫁して自らの皇帝即位を画策しており(袁世凱は1916年に皇帝即位を宣言したが内外の反対で断念して、その直後に急死)、全く根拠のない作り話であるとは言いがたいが、袁世凱が数十の交渉を重ねて受託を拒否し続けたことを考えると信憑性に疑問を持たざるを得ない。
[編集] 正式な名称と「通称」
対華21ヶ条要求には正式な名称は存在しない。したがって、次のような言い方は、いずれも"通称"であり、いずれも間違いとはいえない。
- 「対華」、「対支」、「対中」、または入れないか
- 「5号」、「五号」、または入れないか(横書きならば数字が、縦書きならば漢数字が、それぞれ使われることが多い)
- 「21」、「二十一」、「二一」(横書きならば数字が、縦書きならば漢数字が、それぞれ使われることが多い)
- 「か条」、「ヵ条」、「カ条」、「ヶ条」、「ケ条」、「箇条」、「個条」、「条」
- 「の要求」、「要求」、または入れないか
これらの通称を用いる場合には、通称であることを明確にするため、「いわゆる」を言葉の前につけることがより望ましい、とする考え方もある。
なお、このような通称が用いられるようになった経緯(いつ誰がどのような形で使い始め、どのような過程で一般的な用語となっていったのか)は、不明である。
ちなみに、岩波書店から出版されている4つの年表(いずれも横書き)を見るだけでも、「5号21か条の要求」(『近代日本総合年表 第四版』2001年)、「対華21か条要求」(『世界史年表 第二版』2001年)、「対華21か条の要求」(『日本史年表 第四版』2001年)、「対中21ヵ条要求」(『近代日中関係史年表』2006年)と、表現はまるでばらばらである。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | 大正時代 | 20世紀の中国史