加藤高明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生年月日 | 万延元年1月3日(1860年1月25日) |
---|---|
出生地 | 尾張藩 |
出身校 | 東京大学法学部卒業 |
学位・資格 | 正三位 大勲位菊花大綬章 伯爵 学士 |
前職 | 衆議院議員 憲政会総裁 |
世襲の有無 | 本文参照 |
在任期間 | 大正13年(1924年)6月11日 - 大正15年(1926年)1月28日 |
選挙区 | |
当選回数 | 衆、貴 |
所属(推薦)党派 | 憲政会 |
没年月日 | 大正15年(1926年)1月28日 |
加藤 高明(かとう たかあき)、万延元年1月3日(1860年1月25日) - 大正15年(1926年)1月28日)は日本の外交官、政治家。第24代内閣総理大臣。正三位 大勲位 伯爵。幼名は総吉。娘は岡部長景の妻。新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。
目次 |
[編集] 財界への歩み
尾張藩の下級藩士・服部重文 久子の次男として生まれた。父は尾張海東郡佐屋(後の愛知県海部郡佐屋町、現在は愛知県愛西市)の代官の手代だった。明治5年(1872年)祖母加奈子の姉あい子の加藤家に養子に入り、高明と改名。旧制愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)・名古屋洋学校を経て、東京大学法学部を首席で卒業。三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎の長女春路と結婚(このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と揶揄される)。1887年より官界入りした。
[編集] 財界から官界、政界へ
大隈重信外相の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任し、1900年には第4次伊藤博文内閣の外相に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。その後、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、第1次西園寺公望内閣の外相、駐英大使、第3次桂太郎内閣の外相を歴任する。その間、衆議院議員を2期務め、後に貴族院勅撰議員となった。大正2年(1913年)、桂の主導による立憲同志会の結成に参画して、桂の死後に総裁となった。翌年第2次大隈重信内閣の外相として、第一次世界大戦への参戦、対華21ヶ条要求などに辣腕を振るった。大隈退陣後は、同志会と中正会が合同して成立した憲政会の総裁として元老政治の打破・選挙権拡張をめざす。しかし、同志会結成の過程で犬養毅らと対立し、元老の西園寺公望からは対華21ヶ条要求を出した事に対して批判を加えられた。また総選挙のたびに議席数を減らすなど平坦な道のりではなく、苦節十年と呼ばれる長期にわたる在野生活を送った。
[編集] 組閣以降
第二次護憲運動で清浦内閣が倒れ、立憲政友会、憲政会、革新倶楽部の所謂、護憲三派が新しく組閣することになった。1924年(大正13年)6月11日比較第一党となった加藤は内閣総理大臣となった。選挙公約であった普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立するなど、一定の成果をあげた。しかし一方では共産党対策から治安維持法を同時に成立させた。この法は後に、言論弾圧法規として猛威をふるうことになる(飴と鞭)。
また、この内閣から以降7代、衆議院の多数政党が内閣を交互に組織する「憲政の常道」が確立され、大正デモクラシーの成果が実った内閣でもあった。
翌年、憲政会と政友会のつなぎ役であった横田千之助司法大臣が急死すると、政友会と憲政党は内紛を起こして護憲三派連立は崩れて加藤内閣は崩壊する。だが、元老の西園寺公望は自らが次の政友会内閣の首班に期待していた横田が死ぬとたちまちその遺志を踏みにじって護憲三派を崩壊させた政友会に失望して、個人的には好意的ではなかった加藤に政権を続投させる決断をした。これを受けて1925年8月2日、加藤の憲政会単独内閣となる[1]。その翌年に加藤は病死してしまい、若槻内閣へと交代する。
[編集] 栄典
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 脚注
- ^ 現代ではこれを内閣改造とみなすことが多いが、加藤はこのとき内閣総辞職してからあらためて二度目の組閣の大命を受けているので、この日以後を「第二次加藤内閣」とする方が合理的である。実際1980年代はじめごろまでは教科書や参考文献の多くが「護憲三派の第一次加藤高明内閣」「憲政会単独の第二次加藤高明内閣」といった書き方をしていたが、首相官邸ホームメージができてその歴代内閣一覧で第二次加藤内閣が無視された結果、多くの文献がこれを踏襲することになってしまった。なおこのあと、近衛文麿は第二次近衛内閣で意見が衝突した松岡洋右外務大臣を辞めさせるため、やはりいったん内閣総辞職してからあらためて組閣の大命を受けて松岡抜きの内閣を組織しているが、この明確に内閣改造を目的とした再組閣の後の内閣を、今日われわれも、総理官邸も、「第三次近衛内閣」と呼んでおり、明らかに一貫性を欠いている。
内閣総理大臣 | ||
第23代 清浦奎吾 |
第24代 1924 - 1926 |
第25代 若槻禮次郎 |
|
歴代の内閣総理大臣 |
---|
伊藤博文 | 黑田清隆 | 山縣有朋 | 松方正義 | 大隈重信 | 桂太郎 | 西園寺公望 | 山本權兵衞 | 寺内正毅 | 原敬 | 高橋是清 | 加藤友三郎 | 清浦奎吾 | 加藤高明 | 若槻禮次郎 | 田中義一 | 濱口雄幸 | 犬養毅 | 齋藤實 | 岡田啓介 | 廣田弘毅 | 林銑十郎 | 近衞文麿 | 平沼騏一郎 | 阿部信行 | 米内光政 | 東條英機 | 小磯國昭 | 東久邇宮稔彦王 | 鈴木貫太郎 | 幣原喜重郎 | 吉田茂 | 片山哲 | 芦田均 | 鳩山一郎 | 石橋湛山 | 岸信介 | 池田勇人 | 佐藤榮作 | 田中角榮 | 三木武夫 | 福田赳夫 | 大平正芳 | 鈴木善幸 | 中曾根康弘 | 竹下登 | 宇野宗佑 | 海部俊樹 | 宮澤喜一 | 細川護煕 | 羽田孜 | 村山富市 | 橋本龍太郎 | 小渕恵三 | 森喜朗 | 小泉純一郎 | 安倍晋三 |